研医会通信  傷寒論とその関連本
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このページは財団法人研医会が2009年4月に開催した科学技術週間のイベント、

 「傷寒論とその関連本  東洋医学の大きな柱 『傷寒論』を読み解いてきた歴史をみる で展示した本のご紹介をしています。

  (展示会はすでに終了しております。)

傷寒論とその関連本展示本リスト

書名 著者・編集者 等 発行者・発行所 巻・冊
1
肘後備急方101方 陶弘景 香川修庵 8巻5冊 延享3年
1746
2
千金翼方 孫思バク 掃葉山房 30巻16冊 同治7年
1868
3
太平聖恵方 第8巻 宋臣(宋 第2代太宗の命)     淳化2年
992
4
校正 宋版傷寒論 張仲景 著  宋・林億ら 編 拙庵蔵版 3冊 寛政3年
1791
5
金匱玉函経 張仲景 著  宋・林億ら 編     延享3年
1746
6
金匱要略 張仲景 著  宋・林億ら 編     享保17年
1732
7
傷寒明理(薬方)論

成無己

張孝忠・序(開禧1205〜)

  巻1−4 1冊 金・皇統2年
1142
8
註解傷寒論 成無己 躋寿館 上中下 天保6年
1835
9
仲景全書 王 叔和 撰次   6巻 6冊 寛文8年
1668
10
傷寒論後条弁 程応旄     康熙9年
1670
11
類聚方 吉益東洞   1冊 宝暦12年
1762
12
傷寒論輯義 丹波元簡 聿修堂蔵版 10冊 享和元年
1801
13
傷寒広要 丹波 元堅 聿修堂蔵板 巻1-3  文政10年
1827
14
傷寒提要 森立之  林用之 書・識   1冊  
15
傷寒論識 浅田宗伯     明治14
1881
16
康平傷寒論 大塚敬節 校註     昭和12
1937
17
漢方診療の實際 大塚敬節、矢数道明、
清水藤太郎
    昭和30
1955
18
類證増注傷寒百問歌 銭 聞禮 撰   巻1−2 元末〜明初
19
傷寒六書 陶節菴(陶華)   全4冊 明 正統 頃
1440頃
20
傷寒舌鑑 張登誕先 彙纂     康熙7年
1668
21
傷寒図説 原 元麟
(吾堂)
昭昭坊 1冊 寛政10年
1800
 

 

 

『肘後備急方101方 』  陶弘景(452−536) 香川修庵 8巻5冊  延享3年 1746

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 神仙思想や煉丹術の理論書『抱朴子』を著した葛洪は張仲景医書などを研究し、『玉函方 百巻』という医書を編纂。さらにその要略を3巻にまとめた『肘後救卒』も作ったといわれる。(2書とも現伝せず)
 葛洪(261−341)より百数十年の後、六朝時代の道家であり、医学者であった陶弘景は、葛洪の『肘後救卒三巻』を改変して『肘後備急方 百一方』をつくる。
 この本は香川修庵鑑訂、沼文進校正で、大阪で延享3年に発行された8巻5冊の本。

  

 

 

『千金翼方』  孫思バク(581−682)  掃葉山房 30巻16冊  同治7年 1868

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 阮河南の処方を取り上げ『千金方』をまとめた孫思バクは、その後、張仲景の処方の著効を知るに至って考えを改め、『千金翼方』を著したとされる。ただし、『千金翼方』は異なる人物の著作という説もある。

 この本は清代、同治7年刊の掃葉山房蔵版のもので、30巻16冊。掃葉山房は清朝の代表的版元のひとつで、大量に廉価で出版した石印本で知られている。

 

 

 

 

『太平聖恵方 第8巻』   宋臣(宋 第2代太宗の命) 淳化2年  992

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  別名・『淳化本傷寒論』(992)
   高継沖(943−973)献上本の『傷寒論』
    
 荊南の最後の王・高継沖は北宋への帰順を示し、政府に『傷寒論』を献上した。この本は『淳化本傷寒論』とも呼ばれ、『太平聖恵方第8巻』(992)に収載されて、現代に伝えられている。宋臣らの改変が行われる以前の『傷寒論』の形がみられるとして、研究されている。
 『宋以前傷寒論考』(東洋学術出版社)の著者のひとり、牧角和宏氏はインターネットで『太平聖恵方 巻八』全文を公開しておられる。

 

 

 

『校正 宋版傷寒論』(1065) 張仲景 宋臣・林億、孫奇ら 編 拙庵蔵版3冊 寛政3年 1791

『金匱玉函経』 張仲景 宋臣・林億ら 編  延享3年 1746

『金匱要略』 張仲景 宋臣・林億ら 編 享保17年 1732

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 北宋の時代には印刷技術の発展もあり、多くの医書が刊行される。勅命により、校正医書局において林億らは次々と散逸しかけた医書を再編した。『宋板傷寒論』はその最初の書物で、この後さらに『金匱玉函經』『金匱要略』も再編刊行されていく。
 原・張仲景医書はさまざまな形で伝えられてきていたが、この宋改によって、大きくいえば、傷寒を扱う『傷寒論』と雑病を扱う『金匱玉函經』、さらに後から発見された「仲景金匱玉函要略方」3巻のうち、中・下巻をまとめた『金匱要略』の三書になった。

 展示本は寛政3年(1791)刻、拙庵蔵版の3冊本で、浅野元甫の序文が巻頭にある。

 

 

『傷寒明理(薬方)論』 成無己(1064−1156)撰  張孝忠・序(開禧1205〜)

              巻1−4 1冊  金・皇統2年 1142


『註解傷寒論』   成無己  上中下  躋寿館  天保6年 1835 

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  『傷寒明理薬方論』(1142) 中国 金代
『註解傷寒論 10巻』(1144) 
 
 『傷寒明理薬方論』の内、明理論3巻は『傷寒論』の病証から50を選んで再編し、診断・病理・治療法について論じ、薬方論1巻は20の代表的処方について述べている。
『注解傷寒論』は治方と処方条文の目次などを省略したり、各処方校正薬名の気味を付加するなど『宋板傷寒論』の使い勝手をよくするという目的で作られている。この『成本(傷寒論)』の流行により、長らく『宋板傷寒論』の復刻はなされず、後世に大きな影響を与えたといわれる。成無己(せいむき)は、成無已(せいむい)とも表記される。

 

 

『仲景全書』(1599) 1 〜 6巻 6冊 趙開美 編    寛文8年 1668

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 趙開美は邑に疫病が流行したことをきっかけに医書を編纂することをめざした。『傷寒論』『金匱要略』を復刻する準備をしていると、さらに『宋板傷寒論』が手に入り、これを合わせて『仲景全書』をつくった。その内容は、@成無己『注解傷寒論』10巻、A張仲景『金匱要略方論』3巻、B張仲景『(翻刻宋板)傷寒論』10巻、C宋雲公『傷寒類証』3巻 である。日本では寛文8年(1668)に復刻され、以後『傷寒論』研究が盛んになり、繰り返し出版された。
この本は@ACの組み合わせになっている。

       

 

『傷寒論後条弁』(1670)  程応旄   康熙9年 1670

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 1593年、方有執(1523〜?)は『傷寒論条弁』8巻を著す。方有執はもともとは医師ではなかったが、30歳に満たぬ妻を2人亡くし、5人の子どもも「驚風」で失ったことを契機に医学をめざすことになったという。「以通仲景之源。風霜二十余年」さらに「八経寒暑。稿脱七謄」して『傷寒論条弁』をまとめた。この数年後には『仲景全書』も出され、傷寒論のブームがおこる。この『傷寒論条弁』に啓発されて、清の喩昌(1585-1664)が『傷寒尚論篇』を、程応旄が『傷寒論後条弁』を発表する。この影響を受けて、日本では古方派が形成されていく。

   

 

『類聚方』(1762) 吉益東洞(1702-1773)  1冊   宝暦12年 1762

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 「方証相対」を提唱した吉益東洞は安芸の出身であったが京都東洞院に居を構え、東庵という名を東洞に改めた。『傷寒論』を熟読して仲景が証に従い、病因に拘泥しないことに注目して方が最も大切だという考えに達したという。30歳ごろから「万病一毒」説を唱え、50歳で『傷寒論』と『金匱要略』から薬方を選ぶ指標になる証の条文を集めて、方ごとに並べ替えた『類聚方』を著した。同じ頃、清では徐霊胎が出て『傷寒論類方』(1759)を完成させている。展示本は明和の刊。小さい版であるが、携帯の便を図ったのだろうか。

 

    
      
 

 

 

『傷寒論輯義』 丹波元簡(1754−1810) 聿修堂蔵版 10冊  享和元年 1801

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 寛政13年(1801)序 10冊 
  
    
 丹波元簡による傷寒論研究書。巻頭には序と凡例がある。凡例には略号の説明があり、「(成)は無己なり傷寒論注解」などと書かれている。挙げられた研究者の名前は28名ある。(別掲)凡例の後には「傷寒論綜概」という文があり、『傷寒論』の歴史が語られている。注釈は本文の1行を2つに分け小字で入れられている。歴代の医家の考え方が整理されているし、印刷も美しい本である。原文は宋版に依る。

 

 

『傷寒広要』  丹波 元堅  巻1-3 聿修堂蔵板  文政10年 1827

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 (1827)巻1−12 4冊 聿修堂蔵版 
   多紀元堅(1795-1857)
 

 序文は元胤が書き、凡例は元堅が書いている。凡例に続き「傷寒廣要採?書目」があり、161の書名が連なっている。元簡、元胤、元堅と続く多紀家の研究者たちが読んでいた膨大な資料が伺える。文章は返り点や訓点が施されて、文字も美しい。中国においても高く評価された江戸末の考証学者たちの業績は、この後森立之に受け継がれていく。


 

 

 

『傷寒提要』  森立之(枳園) (1807−1885) 1冊 林用之 書・識

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森立之は文化14年、江戸北八丁堀の生まれ。少年の頃から渋江抽斎(1805−1858)と親交があり、考証学者・伊沢蘭軒(1777−1829)の門人の中で渋江抽斎、岡西玄亭、清川玄道、山田椿庭とともに蘭門五哲と呼ばれていた。31歳のときから12年間、録を失っていたが、その間にも多くの著作を成し、『神農本草経』『素問霊枢』『傷寒論』『金匱要略』『扁鵲倉公伝』などの攷註を書いている。1849年、江戸医学館が開講するが、その講師を命ぜられる。維新後は温知社を組織し、『経籍訪古志』を刊行、清の楊守敬、(1839−1915)とも親交をもった。

     

 

 


『傷寒論識』  浅田宗伯(1815−1894)  加藤慶寿書写本  明治14  1881

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   著者の浅田宗伯は、高遠藩の藩医中村仲棕の弟子となって医学を修め、天保3年京都に上り、22歳で江戸で開業したといわれる。その著作は非常に多く、80種類200余巻になるといわれる。 代表的なものだけでも『勿誤薬室方函口訣』『橘窓書影』『古方薬議』『脈法私言』『傷寒論識』『雑病論識』『皇国名医伝』『先哲医話』などがある。幕末、13代将軍家定やその夫人天璋院の侍医となったり、幼き日の大正天皇の危機を救ったというエピソードも伝わっている。

      

 

 

『康平傷寒論』  大塚敬節 校註   昭和12 1937


『漢方診療の實際』  大塚敬節、矢数道明、清水藤太郎  昭和30 1955


 

『類證増注傷寒百問歌』  銭 聞禮 撰  巻1−2  無刊記 元末〜明初

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 巻之一 傷寒解惑論
 巻之二 太陽・陽明・少陽から始まり28の証について
 巻之三 熱病・中暑・温病から始まり66痞氣まで
 巻之四 嘔逆・吐・嘔吐自利から93小兒痘疹まで

  本の最初の部分は失われているが、序文の最後に「至大己酉臘月圓日武夷・清子子敬亭」とあり、至大己酉は1309年にあたるので、序文は元代に書かれたものである。明初の聿修堂蔵の版は毎半葉11行、毎行21文字で、序文も同じかと思われる。  
(本に添付された覚書による)  
  

 

 


『傷寒六書』 陶節菴(陶華)(1368−1398) 全4冊   明 正統 頃   1440頃

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 「傷寒瑣言」「傷寒家秘的本」
 「殺車槌法」「傷寒一提金」
 「傷寒證脉薬截江網」「傷寒明理続論」


 明代中期、『傷寒論』ブームの先駆けとなった書物。著者の陶華は脈診に長け、その治療は奇効を奏したという伝説がある。自序には朱肱が『傷寒百問』を著したが、宋道方に数十条の指摘を受けたことを挙げ、長年研究を重ねた末に発表された『傷寒百問』でさえ批判されたのだから、自分の著作は家伝として秘すようにとこに託している。しかし、秘蔵されるはずの口訣集は世に出ていくことになる。

 

 


『傷寒舌鑑』 張登誕先 彙纂  冊1 康熙7年 1668

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 舌診のための本で、色をつける代わりに文字で色を示している。白苔舌、黄苔舌、黒苔舌、灰苔舌、紅苔舌、紫苔舌、黴醤色胎舌、藍色胎紋舌、妊娠傷寒舌という分類で、120もの舌の絵図が載せられ、その絵図の下には全身の症状や病位が記されている。
現代でも舌診のための写真入の医書は多いが、的確な診断をしたいという欲求は昔も同じだったのだろうと感じる。

 

 


『傷寒図説』  原 元麟 (吾堂)  昭昭坊 1冊  寛政10年 序

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 陽道-熱-中風、陰道-寒-傷寒 という陰陽の考えかたを図で示して方剤を選ぶ助けになるように作られた本。症状によってフローチャートを進むと方剤に至る図が9図、附録として「類証異方」が5葉ついている。この書は『傷寒論精義』の附録であった。『傷寒論精義』は昭昭坊蔵版、図説共で5巻7冊の本。


 

 

 

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