眼科諸流派の秘伝書(2)
3.江源流大灌頂錦嚢眼科秘録
この写本は天地人の3冊(平均27丁)よりなり、書写年代は示されず、各冊末尾に馬嶋高慶花押と書き込まれている。
内容見出し項目を拾ってみると
第1冊(天): 龍樹醫王論、風熱不制之病論、眼科用薬次第法、病論薬方、口授秘伝
之事。
第2冊(地): 眼病絵図人治療法(分膜他43個) 眼丹眼胞眼痔図入、内障之図眼日見
様之事、開金針法、観音呪、家伝口授内障鍼之法、眼科用薬次第法。
第3冊(人): 禁食之事、内外通禁之事、金石薬銘効能製法之事、眼病体図(彩色絵)
12個、眼病絵図入治療法38個。
しかし、末尾に書き込まれた馬嶋高慶なる人が何時頃の方か、いわゆる眼科馬嶋流にどんな関係をもつ人物か、調査不十分で未だ文献等にも見当らない。この写本は内容的にみれば、他の馬嶋流眼科秘伝書をあるがままに相伝したものとも思えず、例えば龍樹王論などを最初に挙げている点、明らかに「医心方」や「千金方」等と同じく隋唐医学の系統に入るものと考えられる。
また、記述は薬物の効能製法、眼病の治療方は簡潔であるが、各々に病眼之体図を挙げわかりやすく説明している。その一、二を次に挙げてみよう。
『蜜ハ眼ヲ清シ諸眼ノ痛ヲ止ム、蜂蜜ヲ用ユル事目ニハ悪シ、氷砂糖ヲ水ニテ洗ヒテ氷砂糖拾文目ニ水拾文目入レ龍脳一文目入レ練リテ用ユ是レ龍樹醫王相伝之蜜ナリ、秘中之秘ナリ、几ソ氷砂糖ハ生大寒ニシテ目ヲ和ケ熱ヲサマスモノナリ是レ目之聖薬ナリ。
是レハ釣膜卜目眼也、心火ヨリ発ス、其形大皆小皆ヨリ筋出テ鳥眼瞳子之上二通モノ也、治療ノ法ハ刀ヲ以テ白眼卜黒眼トノ境ヲ切テ温金ヲ當ヘシ、點薬ニハ真珠散ヲサスヘシ、内薬ニハ三黄四物湯ヲ用ユヘシ』
また、内障之図眼目見様之事の項には、
『夫内障之事青黄赤白黒之五色アリ、五色ヨリ分ツテ三十六種之品アリ、皆虚冷ヨリ起ル証也、今十二種之内障ヲ挙テ其餘ヲ撰。
白内障之事、其形瞳子之内蓮葉之中二露之有ガ如ク白々卜見ユル事、 白蓮花之如ク、或ハ蛙之歌袋之膨脹シタルガ如シ或ハ瞳子ハ甚ダ深白クシテ物之形モウツラヌ者也、此症ハ世二膿内障トモ云或ハ頭痛眩曇又ハ湿毒瘡毒ヨリ発スル事モアリ、膿水氷之如ク成テハ薬計ニテハ不治、口伝之針法之神術ヲ以テ水底之悪水ヲ取ハ三四年モ日数ヲ経トモ又明ニナル者也』
等々の要領で記述されている。白内障等ソコヒの類は薬物のみにては治りにくく、口伝の針法神術を以て治療しないと治癒しにくいといっている。
この他、この写本には朱墨で彩色した眼病体図という割合整つた眼病図が掲げられ、簡単ながら眼病図譜の雛形ともいえる図をのせている。
この様に江源流限科秘録は他の多くの眼科流派が明医学を基に伝承しているのに対し、隋唐医学に基づく眼病論を展開している点、
この流派の特色である。
4 白嗜国公禪流眼目秘博之書
この流派は白嗜国(山陰道八カ国の一、現鳥取県米子、倉吉市地方)に伝えられた眼科と思われるが、 この秘伝書の前書によると『天正の年に大明より航至て光明と云うもの来れり、即ち上行院行幸なるとて右之薬を伝也、上行院より前島主膳正秀正草庵相伝す、孝道感應則雖後代明盲目せんこと必矣。慶長18年』とあり、戦国時代天正年間に明国からの渡航者によって伝えられたことが窺われる。また「南蛮楚呂玉伝眼目秘術」という写本があるが、
これは南蛮国楚呂玉の眼科を尾張人前島主膳正秀政に伝えたものとあり、公禪流も南蛮流もともに慶長年代の相伝であり、 ともに前島主膳正秀正(政)相伝となっているところより、
この両者には何らかの共通点があるのではなかろうか。秘伝書の名称はそれぞれの秘伝書の受伝者によって創作されたものもちる様に思われる。公禪流の公禪を楚の国の光善というものあり、
とする光善の伝としてそれからとって受伝者が日本流に公禪と漢字をあてはめたものかもしれないが不明確である。
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