このように内容的には五輪八廓説を採用したもので、『古今医統大全』(徐春甫)、『医林集用」(王璽)等に記されている限科と同様、中国に古くから伝えられたインド古代眼科の龍樹眼論が主体をなしている』
『編註医学入門』および『医学入門』の流布本にはおよそ次のものがみられる。
『編註医学入門』 |
明 万暦3年跛刊
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崇禎9年序刊 |
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日本正保2年刊 |
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慶安4年刊 |
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清 光緒19年刊 |
『医学入門』 |
日本 江戸初期(古活字版) |
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元和3年跛刊 |
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寛永19年刊 |
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寛文6年刊 |
『医学入門』(仮名抄) |
元禄11年写 |
『医学入門諺解』 |
宝永6年刊 |
『新校正合類李梃先生医学入門』(八尾玄長編) |
日本 寛文6年刊 |
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享保7年刊 |
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延享4罰年跋刊 |
また、本書は朝鮮李朝純祖31年辛卯8月には『医学正伝』(虞博)と並び医家必修書に挙げられ、 医科試験書として新たに採用された。そして甲午(純祖34年)式医科から「編註医学入門」を医科講冊の背講とし、「銅人経」を面講として取扱われた。本書は朝鮮では中国医書中最も尊重せられ、『東医宝飽
』(許浚)と並び行なわれた。
本書の朝鮮刊本として
a.
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初刊本 万暦後期刊? |
b.
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初期整版本(aに拠つた翻刻木版と思われる)。 |
c.
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b.によつた補刻重刊本 |
d.
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純祖18年内局刊本(整版) |
e.
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高宗初期刊本(活字) |
等が挙げられている。(三木榮著『朝鮮医学史及疾病史』)
『編註医学入門』はわが国でも度々刊行され、 かなり広く読まれたものと思われる。
本書がわが国で実際に採り入れられ始めたのは江戸時代に入つてからのことであつたと記したが、その第一の人は古林見宜があげられる。
「古林見宜は曲直瀬正純(曲直瀬道三正盛女婿)の門より出で、朱丹漢の学を為し、また、和氣、丹波の両流に遡ぼりて、
わが朝扁鵠(中国、 戦国時代―BC 403〜221-鄭人、姓秦、名越人。諸国を遍歴し医療を施した、脉診に長じ、中国の名医・神医とも呼ばれた1人)の風を開き、遂に張仲景、劉守眞、李明之の三家を参考し、最も意を李梃の『医学入門』に用い、常に読み、常に講じ、諸生を導く、一中略―、常に曰く、医を習うに規格なかるべからずと、乃ち李梃著すところの習医規格を採つてこれを梓行し、又、同門の堀正意(杏庵と号す)と相謀りて学舎を嵯峨に建て以て孜々として諸生を誘掖す」(富士川游著『日本医学史』)
また、松下見林の古林見宣伝には「先生嘗て『医学入門』を閲し、以為らく夫医学は広大?博にして津涯なきが如し、故に李梃入る所を知らざるを懼れ、因て其急切なる者を摂取し、以て之を纂す。初学此を得て玩心せば亦以て其門を得て入るに足る矣。医道盡く之を得るあるに康からむか。先生深く纂集の指を信じ、井日正求をして大学に繕写せしめ、以て梓して記誦に便す」とあり、彼の所謂『医学入門』はこの井日正求の繕写して、見宜の上木したものに相違ない(安西安周著『日本儒医研究』)。
このように、富士川游先生、安西安周先生等はそれぞれ述べられている。
さらにまた、『医学入門』の閲読者の1人(某古人)は次のようにいつている.
『医学入門』は脉薬、針灸、病機、本草、導引、按摩、運気、養性論に至るまで尽く書き集めてある。また、この人門には無機根なる人を導かん為に四子の説をも少しずつ書き集めてある。本書を一通りも読まぬものは俗医としても数えられず、一通り読みとおして初めて小医といわれ、大医たる人はこの人間を階梯として素問、難経および本草等の奥室に入るべきである、と。
斯様に当時の医学を修めようとする者にとつて『医学入門』は必読書の一つであつたといえる。
主な参考文献
1)
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李梃:編註医学入門、明0万層3年(1575)序刊 |
2)
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李梃:編註医学入門、明・崇禎9年(1630)序刊 |
3)
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李梃:医学入門、元和3年(1617)跛刊 |
4)
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李梃撰、八属玄長(編):‐新校正合頻李梃先生医学入門.延享4年(1747)跛刊 |
5)
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廖温仁:支那中世医学史.167、 カニヤ書店、京都、1932. |
6)
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富士川游:日本医学史.288、日新書院。東京、1943. |
7)
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安西安周:日本儒医研究。173、龍吟社、東京、1943. |
8)
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丹波元胤:中国医籍考.1029、人民衛生出版社、北京、 1956. |
9)
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日本学士院。科学史刊行会:明治前日本医学史. 5:350、日本学術振興会、1957. |
10)
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三木 榮:朝鮮医書誌。285、大阪・堺市、1957. |
11)
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三木 榮:朝鮮医学史及疾病史. 306、大阪・堺市、 1963 |
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