『医方問餘』の眼目門には『證治準縄』のほか、『銀海精微』(孫思バク)、『眼科全書』(哀学淵)、『原機啓微、附録』(蒔己)、『医学綱目』(榎英)等の諸書が引用『医方問餘』眼目門、巻之三)され、また、『銀海精微』および『眼科全書』に所載の五輪図、八廓図、他81図の眼病図が引用附加されている。『医方問餘』の眼目門が優れていると称せられるのは、つまり『證治準縄』の眼目が優れているということであり、1943年千葉大学伊東弥恵治博士が『證治準縄』所載の『視赤如白證』を閲読し、これを世界最初の色盲論として論文にまとめ発表(日本医史学雑誌
No 1313、p.117)されたことからしても本書が学術的にかなり進んでいたことを示すものと思われる。
『證治準縄』の編者、王肯堂は字を宇泰、 号を念西居士、明、金壇縣の人といわれ、本書の稿が成っても家が貧しかったために資金もなく出版できなかったという。たまたま鶴陽公という人が援助してくれたので本書を世に著わすことができたといわれる。それにしても当時の医学全書は、そのほとんどが、権力の大きい皇帝の勅命による、
いわゆる勅撰が多かった時代にもかかわらすよく古今の方論を採取し編集し、 これだけの大著にまとめ
立派な医学企書を作成したことは誠に王宇泰の超人的努力の賜物といえよう。
『證治準縄』流布本としては中国、明、万暦版(無刊記)、重鐫王宇泰先生医書六書(虞衙蔵版)、清、康熙版等の他、わが国においては、寛文10年(1670)、寛文13年(1673)翻刻刊行されたものがみられる。
『證治準縄』には何か底本となったものがあったのだろうか。王肯堂の自序には、明代以前の多くの医書を参考にしたといっているように底本、あるいは参考書があったものと思われる。例えば『證治準縄』の眼の記載部分と樓英の『医学綱目』(成化年間、40巻)所戴の眼の部分の記述を比較するとほとんど同文の筒処もあるので『医学綱目』も参考書の一つであったと思われる。
この様に『證治準縄』の眼目部門は、その科学的進歩という点ではやや消極的であったが、唐宋以来の伝統ある方論をよく集大成している点では、むしろ豊富な内容と飛躍的発展をなしているということができる。しかもそれが17世紀中頃(1679)名古屋玄医によって著わされた『医方問餘』に取りあげられたことは、わが国の眼科史上見逃すことのできない点であり、かかる意味で本書は貴重な文献である。
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図3 『雑病證治類方』目の部
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図4 『證治準縄』目の部 |
図5『医学綱目』巻3、表紙、寛文2年(1662)刊
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図6 『医学綱目』巻3、目の部、寛文2年(1662)刊 |
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図7 『幼科證治準縄』集之二、眼目 |
図8 『女科證治準縄』眼目 |
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図9 『医方門餘』眼目門、写本の外装、第7冊は眼病図説
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図10 『医方門餘』眼目門 第7冊 眼病図 |
文 献
1) |
王宇泰 |
重鐫王宇泰先生医書六種 虞衙蔵版 |
2) |
富士川游 |
日本医学史 319−320、 日新書院、1943 |
3) |
日本学士院 |
明治前日本医学史4、611、 日本学術振興会、1964 |
4) |
日本学士院 |
明治前日本医学史 5、45、356、 日本学術振興会、1957 |
5) |
三木 栄 |
体系世界医学史 第V部、医歯薬出版、東京、1972 |
6) |
石原 明 |
医史学概説 140、医学書院、東京、1955 |
7) |
謝 観 |
中国医学大辞典 649、商務印書館、上海、1955 |
8) |
方賓観 |
中国人名大辞典 104、商務印書館、上海、1927 |
9) |
伊東弥恵治 |
世界最初の色盲論 日本医史学会雑誌No .1313、 日本医史学会、東京、1943 |
10) |
名古屋玄医 |
医方間餘 延宝7年(1679)写 |
11) |
棋 英 |
医学綱日 明末清初版 |
12) |
孫思バク |
銀海精微 寛文8年(1668)刊 |
13) |
哀学淵 |
眼科全書 貞享5年(1688)刊 |
14) |
蘇 己 |
原機啓微 附録、承応3年(1654)刊 |
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