わが国の戦国時代から安土桃山時代にかけては学説より実際の治療を重視したいわゆる実地医術が外科、眼科、産科および小児科等を中心に盛んになった。例えば戦場における負傷者に対する傷の手当などの必要性から金創医(専ら金創の術を行った士、軍陣外科医)がますます多くなった。眼科においても、伝統ある馬嶋流眼科以外にも、治療術そのものにはそれ程大差はないが、わずかの手技、治療法等の相違点をもって一流一派を唱えるものが漸く増して来た。また、この時代には中国(明)朝鮮との交流もあったので、貿易と共に留学僧や商人等の往来もあり、大陸の文化、医術等を直接学んで帰国する者も数を増しつつあった。一方、ポルトガル船が種子島に漂着(1543、一説1542)し、鉄砲を伝え、天文18年(1549)にはヤソ会宣教師ザビエルが鹿児島に渡来し、天主教を伝導する等いわゆる南蛮文化が漸くわが国に入ってきた。
「白山院(陰)土当延流眼科書」には白山院土当延流の起りについて、以下のようにしるしている。
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『此方日本伝○(「古」の下に「叉))在由来白山陰土唐人也、南京之有及第時在竜芝卜云人楢及第無回思以○(「ごんべん」に「其」)害依此儀不○(「車」に「并」)大唐二退流求其年号太唐嘉靖四年乙酉三日也、年廿七歳也、亦自流求日本二皈朝之○
(「古」の下に「叉))天文三年春流求後船渡薩麻著爰二依然放人有値千金二此方令相伝者也。云々』 |
この様な書き添えがあるが、中国、明代の某仙人の秘方を伝えたものであろうか、以下「白山院(陰)土当延流眼科書」のページをひもといてみることにする。
この写本はおよそ全1冊、39葉、和綴、(28.5× 19.7cm)、本文は片仮名混りの和文で記されているが、著者および書写年代は不詳である。(料紙および使用文字の特徴、例えば"几(ル)、L(レ)"等から推定すると16世紀初め頃)、前半14葉に朱墨、胡粉描写の眼病図が入り、その下に各図に従って治療法が、後半25葉には薬物効能や処方が記述されている。
先ず眼疾の呼称を列挙すると、
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1.上シャクリウ、 2.下シャクリウ、 3.サゥシャクリウ、 4.厚シャクリウ、 5.下膜、 6.上膜、
7.ロクボ、 8.ノソイ膜、 9.病目、10.月の輪膜、11.コニク膜、 12. トニク膜、 13.星クツレ、
14.引ノコリ、 15。目療、 16.底眸、 17.黄底牌、 18.青底牌、19.爛ロサカマツケ、20.膿底翡、
21.藤膜、22.黒ソコ騎、23.スタレ膜、24.筋膜、25 チンクワ、26.カウケツ膜、27.千中、
28.物ノ立タルロ、29.切金、30 フシャウ膜、31.取筋(底騎)、32.血管ノ生物(目蛭)、
33.天病目、34・日コブ、 35.天雲シャウ、 36.コクウ膜、 37.心臓ヨリキタル病、 38.ヒシノテ膜、
39.シモツロ、 40.肝臓ヨリ出タル筋、 41.引雲膜、42.肺ノ臓ヨリ出タル病、43.星膜、
44.ツキロ、45、心肝傷病、46.黒目に白キ物アルロ、47.Lヨリ肉カカリタルロ、48.痛目(底日)、
49.タマ出テ内ニハ膿ラフクム、50.神ノタタリロ、51. ]´日、52.大竜目、
53.老(近物フ見シラヌ)、54.トキノ下。
以上54個の眼病図にそれぞれ簡単な治療法を書き添えている。その中、 ソコヒについての記述をみると、
16. |
コレハ底牌ノハジマリナリ、サシ薬ニハ金珠丹ニ内薬ノロ伝アルベシ。 |
17. |
黄底牌大クロミ人見カクノコトクアルナリ、又、内薬二口伝アリ。 |
18. |
青底牌カクノコトク大黒ミアヲクアルナリ、サシ薬二口伝多クアリ。 |
20. |
膿底翳口伝ノ針ヲタツルナリ、アライ薬、又ハ内薬二口伝アルナリ。(*19がぬけていますが、元のままです。)
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22. |
黒ソコ翳大クロミ黄ノ人見ウスク、黒シナリ、又、サシ薬二口伝アリ。 |
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また、 この写本には他の眼科秘伝書に見られない異った絵が描かれている(図2〜 3)、これらは目のどの部分を表現したものか、それぞれの絵の説明には以下の様な治療法が書き添えられている。
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48. |
痛目底目、 アライ薬清眼湯ニテアライサテ後ハ○眼散二加減シテ指ベシ。 |
49. |
此目ハタマ出テ内ニハ膿ヲフクムモノナリ是ニハ針ヲタテテウミフトル也、サテ、アトヲツクロウモノナリ、
口伝有。 |
50 |
此目ハ神□ (タタリ?)目ト云病ナリ、 アマリニ腎ノワサシケクシテ五臓冷虚シタル目ナリ、腎ヲ補薬ヲ専テヨシナリ。 |
51 |
此目ハ内丁目升丁目卜云病也。此目ノ玉ハ上二有り、能クツクロエバ吉、寒水石吉、開眼散ヨシナリ。 |
52 |
此目ハ大竜目ト云病也。久病ニソコナワレタル目也、先場水ヲヌリテヨシ。 |
53 |
此目ハ老ト云病ナリ、近物ヲ見シラス、 ヌル金ヲアツルナリ、
明眼散ヨシ、 内薬肝要ナリ。 |
54. |
此目ハトキノ下卜云目ナリ、亦人之打出シタルニヨッテ也、大熱ナリ、先下フ呑スヘシ、甘草ヲ煎シテスリテ入、サテアヲムケニ子サセテ毒タチヲスヘシ、龍脳散ヲ一日ニ二度計指スモノナリ、白物、遠目ヲサセズ、三黄円吉也。 |
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後半24葉にはおよそ次の様な項目を挙げ、当延流薬物処方等について記している。
八把肩、底翳ノ指薬ノコト、薬種ノコシラエヤウノコト、五○肩、 目下ノ法ノコト、内薬ノコト、水薬ノコト等……
この様に白山院土当延流はおよそ、わが国天文年間(1532〜1554)に中国、明代の眼科が伝えられたものと思われるが、
この流派の盛衰についてはなお明らかではない。この写本には病理論や病名分類および手術についてはあまり深く立ち入らず、簡略な眼疾図を掲げてその治療法を主に記述してある。この写本の末尾を『抑々此当延流ノ療治ノ手技ハオソラク他二並ビアルマジキ次第ナリ、根本ノ秘訣ハ切紙二顕スル者也』とむすんでいる通り、当時の諸流派の奥儀はそれぞれ口伝という方法で受継がれ、他言は固く禁じられていたものと考えられる。つまり、この「白山院土当延流眼科書」は当時(天文年間)大陸に渡った留学僧等が中国、明代の医学を直接彼地の僧侶あるいは仙人古老から学び得たものを、帰朝後それを実地医術の秘方書として書きおいたものと思われる。
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図1 白山院土当延流眼科書序
太唐嘉靖4年とは中国明代の嘉靖年号のことと思われる。
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図2 図1同書の眼疾図及説明文 (右より48、49、50、51)
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図3 図1同書の眼疾図及説明文 (右より52、53、54)
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主な参考文献
1) |
小川剣三郎 |
稿本日本眼科小史 96、吐鳳堂、東京、1904 |
2) |
富士川游 |
日本医学史 228、 日新書院、東京、1943 |
3) |
古賀十二郎
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西洋医術伝来史、 日本書院、 束京、1943
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4) |
福島義一 |
日本眼科史(日本眼科全書、第1巻、第1分冊)、金原出版、東京、1954 |
5) |
帝国学士院 |
仮名遣及仮名字体沿革史料、国定教科書共同販売所、東京、1909 |
6) |
日本学士院 |
明治前日本医学史 4: 日本眼科史、316、 日本学術振興会、東京、1964. |
7) |
服部敏良 |
室町安11桃山時代医学史の研究 261、古川弘文館、 東京、1971 |
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