12 南蛮流眼目之書
南蛮とはもと中国人が南方異民族に対してつけた呼び名であるといわれているが、わが国では16世紀の初め頃からヨーロッパ人を一般に南蛮人と呼んでいたようである。
1543年にポルトガル船が九州種子島に漂着したのを機に南蛮貿易が開かれ、1584年にはイスパニヤ船などがルソン島から堺、平戸あるいは長崎などの港に来航するようになっていよいよ盛んとなった。それに伴ってもたらされたのがいわゆる南蛮文化、つまりポルトガル文化を中心とする西欧文化である。
この南蛮文化はキリスト教信仰教義が中心をなしていたが、思想、芸術、学術、医学、天文、風俗習慣、趣味生活に至るまで、あらゆる分野にわたっていたので、そのわが国文化に与えた影響も広範におよんだ。
いわゆる南蛮流の医学はこの南蛮文化とともにわが国に入って来たもので、その特色とされるところは、主として外科医術の面であって、その異目的な治療方法や油膏薬等の妙薬が珍重されたものといわれている。
南蛮流眼科はこうした南蛮医術が伝来された時期に興ったもので、当時の外来(西欧)眼科を意味し、その総称ともいえる。一子相伝という方法で受継がれ、一流一派をなした在来の眼科諸流派とは別に、恰もある種の新鮮味をおびた感じの流派として南蛮流という一流派をとなえるものが現われた。
南蛮流の眼科を伝えるものには『南蛮流目医集』(3巻)、『蒸流之眼目書』(慶安元年戌子年河口道春相伝)、『南蛮楚呂玉伝眼目秘術』(尾張の人、前島主膳正秀政相伝)、『九鬼殿流目伝』中の南蛮流目之薬なる項等々が既に知られている。
『南蛮流眼目之書』は墨付38枚、全1冊、横長本(14×20cm)で、 片仮名交り和漢文字1にて認められた写本である。奥書によると、寛永5年(1628)に鈴木六左衛門尉より熱川某殿へ伝授された秘伝書とみられる。この内容はおよそ次の項目に従って記述されている。
1.能毒、2.法度、3.噤物、4.好物、5.灸門、6.目見分、7.煉薬方、8.洗薬、9.煎薬、10.極論
更にこれらの項目の記述をみると、 能毒:竜脳他64味、法度:淫他11條、食噤物:山芋他44種、好物:芋茎他25種、灸門:口伝にあり、
目見分:青、黄、赤、自、黒等5種の内痺の見分、煉薬方:五霊膏(紫野通閑という人、大唐にての伝授の方)、外金膏(薬院照莵)、照明散(5内痺薬)、
白神散(星外痺の薬)、 疱瘡散、 神明散、 洗薬の方:5色内痺の洗薬、 爛目洗薬、 萬目の洗薬、煎薬の方:川蔦湯、二和湯.諸風眼湯。以上の通りであるが、
文末に「右一巻大明国相伝而療治数千人云々……」とあり、明医方も述べる。 また、『眼病秘伝書』という古写本の中に「目薬一流」「内薬一流」「目之薬性論一流」(江州勢多山岡美作守直伝)、「南蛮流目薬」等の項目があり、
この南蛮二::薬の項には白竜散、コク、虎肉散、竜丹膏、青竜散 竜明散、五霊膏、清心湯、辰砂散などが挙げられているが
疾目(やみめ)萬目に効くという五霊膏については南蛮流眼科秘伝書の中でも写本によってその説明が多少異なっている。 『南蛮流眼目之書』、『南蛮目療一流書』、『眼病一流』等二、三の写本についてその條のみを比較してみると次の通りである。
『南蛮流眼目之書』
五霊膏:疾目萬目良
黄蓮、赤芍薬、防風、杏仁
右之薬へ水五舛入三合成迄煎ジツメ衣ニテコシ扨湯煎二入大形能程二煉リツメテ熊ノイ 硼砂甘石此三色ヲ煉リマゼ香箱二入、一夜土底二埋テ叫明朝堀出シテ竜脳、麝香此二色ヲ煉合セルナリ、是ハ紫野道閑卜云人大唐ニテノ伝授ノ方奇妙ナリ、
『南蛮目療一流書』
拂凌香:諸眼二吉
黄蓮、赤芍薬、防風、杏仁
右之薬水五舛入テ三合二成迄煎詰絹ニテコシ扨湯ニシテヨホドネリツメ、熊膽、生蓬砂、芦甘石三色煉マゼテ香箱二入一夜土ノ底へ埋メテオイテ麻香、竜脳ヲ入ルルナリ、
コレハ紫野道蓬卜云人入唐シ、伝授シテ帰朝ス
『眼病一流』中の日薬一流の項
五冷膏:萬目ニ吉
黄蓮、防風、芍薬、杏仁
右水二舛八合入一舛二成程煎シヨクコシ薬鍋二入五合計二煉り薬絹デコシ能程ニ煉り竜脳、麝香、芦甘石、鵬砂、熊ノ井トキテキヌニテカスヲコシ調合セヨ
このように五霊膏は眼疾萬能薬ともいえるほどよく用いられ、南蛮流眼科書の何れにも挙げられているが、その伝来は唐(明)からであったようである。
この様に『南蛮流眼目之書』には明医方による眼の治療法が多く記され、 しかも薬物を主に使用し、内障などもその見分けのことと薬物療法をあげる程度で、その手術療法についての記述は見当らない。つまり、本書も内容的には他の諸流派の眼科秘伝書とあまり異なる所はなかったが、当時の南蛮文化の影響で、例えば南蛮渡来の妙薬一つの導入によっても、直ちに"南蛮流"を標榜したのかもしれない。
したがってその秘伝書にも"南蛮流"と付されたようである。ともかく南蛮流眼科が一流派として興ったことはかかる南蛮流眼科の秘伝書が残されていることにより明らかであり、南蛮流眼科がわが国の眼科に西洋眼科の新風を吹き込む端緒となったことは意義深い。
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図1 南蛮流眼日之書、巻末相伝青轟
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図2 南蛮流眼目秘伝書.巻頭
目と五臓六腑の関係を論じ、絵入眼病治療法を掲ぐ、江戸初期写
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図3 南蛮流療治秘伝書、 巻尾 寛永13年(1636)奥山仁左衛門相伝
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図4 南蛮流医書秘伝 南蛮国医師、 祐歴、 承応2 年(1653)相伝
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