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 2009年  第51回教育・文化週間 イベント

 このページは財団法人研医会が2009年11月2日・4日・6日に開催する教育・文化週間のイベント、

 「漢方を学ぶ本」 (本の展示会)  

      ― 『傷寒論』ほか東洋医学を学ぶための書藉紹介― 展 で展示する本のご紹介をしています。

 

この催しは修了いたしました。ご来場、ありがとうございました。

 

 ●「漢方を学ぶ本」 展示リスト

書名
展示する本
著者・編者
1
『素問』 宋本素問

啓玄子・王冰

安政4年 1857
2
『霊枢』 黄帝内経霊枢      
3
『内経』 影刻黄帝内経太素 巻27 (複製)   文政3年 写 1820
4
『難経』 新編俗解八十一難経図要 熊宗立(15-16世紀) 元和年間 1615〜
5
『傷寒論』 翻刻 宋版 傷寒論 張仲景(2-3世紀) 寛文8年  1668
6
『金匱玉函經』・『金匱要略』 翻刻 金匱玉函経 張仲景(2-3世紀) 延享3年 序 1746
編注 金匱要略 康熙31年 序 1692
7
『十四経発揮』 新刊 十四経絡発揮 滑寿(1304-1386) 寛永8年 1631
8
『万病回春』 新刊 万病回春 キョウ廷賢(16世紀) 正保4年 1647
9
『和剤局方』 重刊太平恵民和剤局方 陳師文 1107 - 1110 1110
10
『千金方』 真本 千金方 孫思バク(581-682) 天保3年 後序 1832
11
『東医宝鑑』 訂正東医宝鑑 雑病篇 ホジュン 寛政11年 1799
人民衛生出版社 東医宝鑑   1955
12
『神農本草経』 神農本草経 (複製)   昭和8年 1933
13
『本草綱目』

正徳4年版 序目

李時珍(1518-1593) 正徳4年 1714
寛文12年版 図 寛文12年

1672

14
『養生訓』 養生訓 貝原益軒(1630-1714) 正徳3年 1713
15
『飲膳正要』 薬膳の原典 飲膳正要 忽思彗・著 金世琳 訳   1993

 

 ●その他、漢方、中医学、本草、薬膳、鍼灸に関する現代の本や雑誌も展示いたします。

  展示会のご案内は こちら 

 

 

『素問』

 

 

 

 

(前漢ごろに成り、唐代に再編、宋代に再々編され今に至る)


  
『素問』は「黄帝素問」または「黄帝内経素問」とも呼ばれ、古来、伏義の易経および神農の本草経とともに、医学に関する基本的経典とされる。その内容は自然と人生との関連から人体の解剖、生理、病理、診候などに関する理論を、黄帝とその師・岐伯との問答という形で記述したもので、理論の根幹をなすものは陰陽五行説である。12世紀、金の成無己(1064―1156頃)は『素問』の理論を使って『傷寒論』の条文解説をしている。


 

 

『霊枢』

 

 

 

 

 

 


(前漢頃に成り、宋代に『鍼経』を『霊枢』とし、1155年に再編され、今に至る)
 
  『黄帝内経霊枢』略して『霊枢』は『九巻』、『鍼経』、『九霊』、『九墟』とも呼ばれ、『黄帝内経』という書物が2 − 3世紀に『素問』と『霊枢』という2書へと再編されたものと考えられている。一旦は失われたが、北宋に至って高麗より献じられた『鍼経』を『霊枢』とした(1093)。さらに南宋の世になった1155年、再び散失の危機に瀕していた『霊枢』を史ッ(しすう)が新たに校正して24巻81篇として刊行する。現行の『霊枢』は全てこの史ッのテキストに基づいている。その記述は、『素問』と同じく黄帝とその臣である岐伯、雷公、少兪、伯高らとの問答体となっており、基礎理論よりむしろ診断・治療・鍼灸施術法などの臨床技術を説くことに力点をおいている。

 

 


 

 

『内経太素』

 

 

 

 

 

(前漢頃の2書を唐代に編集した)

 唐の時代、楊上善が『素問』と『針経(霊枢)』という2つの書物をまとめ註釈をつけたもので、医学の理論を体系的に論じている。日本では『素問』『霊枢』に替わるものとして、700年代中頃には将来され、延喜式では460日をかけて学ぶようにと決められていた。13世紀までは『太素』が『素問』を圧し、宋改『素問』が出たことで14世紀には両者の影響は互角となり、15世紀は立場が逆転して『太素』は姿を消したといわれる。しかし、江戸時代になって京都の仁和寺から平安時代に写された『黄帝内経太素』が発見され(文政10年=1827)再び脚光をあびることになる。

 

 

 

 

 

『難経』

 

 

 

 

 

 

(秦漢頃の医学を後漢の時代にまとめた)

 『難経』は時に『八十一難』『黄帝八十一難経』『黄帝八十一難』とも言われる。秦漢の時代から伝えられた医学を、後漢以後にまとめたものと考えられている。わが国の延喜式では、さほど分量の多くない本にしては、60日という時間をかけるべきとされ、重要な医書と認識されていたのだと思われる。三国時代の呉の呂広や初唐の楊玄操を筆頭に歴代の医家が注釈を加えている。
 日本人の手になる解説書としては、『難経本義抄』、『難経捷径』、『難経抄』がある。さらに、文政元年から2年(1818〜1819)に多紀元胤(1789〜1827)が『黄帝八十一難経疏証』を著し、この書は『難経』研究の頂点といわれる。

 

 


 

 

『傷寒論』(宋版傷寒論)

 

 

 

 

 

(原本となる仲景医書は後漢に成立、晋代、宋代に再編され、多く の医家に影響を与えて今に伝わる)

『傷寒卒病論集』という本の張仲景自序には、建安紀年(196)以来10年も経たぬうちに200余人いた宗族の3分の2が亡くなり、その10のうち7は傷寒が原因で死亡したため、自分は『素問』『九巻』『八十一難』『陰陽大論』『胎臚薬録(たいろやくろく)』『平脈弁証』などを撰用して『傷寒雑病論16巻』を作った、と述べている。晋代、太医令であった王叔和(3世紀)は戦乱の中で散逸しかけていたものを傷寒部と雑病部にまとめたという。宋臣らが医書の校刊に際して真っ先にこの書を世に出したように、実践的な臨床の研究書として最重要視され、現代でもこの書を中心にすえて東洋医学が学ばれる。

 

 

 

 

 

『金匱玉函経』   と

『金匱要略』

 

 

 

 

この張仲景の流れを汲む医書について、東京理科大学薬学部の遠藤次郎氏、島木英彦氏、中村輝子氏の共著論文「『金匱玉函経』および『金匱玉函要略方』における葛洪の役割り」では、金匱と名のつく両書はともに『玉函方100巻』から派生した書物であると結論づけておられる。つまり、『傷寒論』は葛洪のところで大部の『玉函方100巻』と、簡便さを目的とした『肘後方』とに分かれ、さらに『玉函方100巻』は『金匱玉函経』と『金匱要略』とに受け継がれ、また孫思?(581-682)の『千金翼方』にも影響を与えていく。しかし時代とともに錯雑や欠落が起こり、宋代の林億らが手にした時点では『金匱玉函経』も『金匱要略』も元の姿を失っていたため、宋臣はこれを再編する。『金匱玉函経』は『傷寒論』と表裏の書といわれるが、条文には違いもある。

 

 

 

 

 

『十四経発揮』全3巻

 

 

 

 

 

 (1341年)   元代(1260〜1368)の滑寿(1304?〜1386?)が著した、経絡・経穴についての書物。十四経とは、三陰三陽の12経脈と奇経8脈のうちの督脈と任脈を加えた14経をさす。『素問』『霊枢』の理論を使って経絡を体系的に解説した教科書的な書物で、江戸時代には17 回も復刻され、現在まで読まれ続けている。一方、中国では同じ滑伯仁の『難経本義』が多数復刻された反面、この『十四経発揮』は明の『薛氏医案』二十四種収録本を最後に、のち復刻されなかった。


 

 

 

 

 

『万病回春』

 

 

 

 

 

(明代に成立)
  『万病回春』は、?廷賢(16世紀)によって編輯された医学全書である。『素問』『霊枢』を初め、劉完素、張従正、李東垣、朱丹渓ならびに儒医の諸書の法を基礎として多くの医家の秘方もとり入れ、さらに自己の経験を加えて、詠訣、病論、治法、方薬の順に記述する。分類法も内容についても詳細で、初学者にとっては恰好の指南書であり、医家にも切要の医書とされた。朝鮮の李朝にても広く学習され、わが国の江戸時代も多くの者がこの書を活用し、『養生訓』を著した貝原益軒(1630−1714)も父親にこの書を学んだという。

 

 

 

 

 

『和剤局方』

 

 

 

 

 

 

(大観年間1107−1110)

 宋代、進んだ印刷技術を背景にして、多くの医学書が刊行されたことはよく知られている。第8代の徽宗が刊行を勅したのが、『和剤局方』と『聖済総録』である。この頃、宋は薬物の専売制度を実施し薬価を統制。薬物の製造と販売は国が掌ることになり、薬の調達が楽になった。薬局には専任の官員をおいて管理させ、生薬の購入、規格外のものの廃棄、また各種の剤型を決めて製法も定めたという。徽宗の崇寧年間にまとめられて以来約200年の間実利の書として利用された書である。

 

 


 

 

『千金方』30巻

 

 

 

 

 

 

(唐代の孫思バク(581−682)が編輯)
    
 道教の真人と呼ばれ、102歳まで生きたとされる孫思?が、漢から六朝時代の処方を集め、また自らの考えも加味してまとめた医書。臨床で出会う寒熱併存・虚実兼挟・上下同病・表裏倶傷などの錯綜した複雑な証にこの本の温清併用・補瀉同施・上下兼顧・表裏同治などの雑合の法が解決に結びつくといわれ、中医臨床経典として重要視されている。阮河南の処方を取り上げ『千金方』をまとめた孫思?は、その後、張仲景(『傷寒論』の原著者)の処方の著効を知るに至って考えを改め、『千金翼方』を著したとされる。ただし、『千金翼方』は異なる人物の著作という説もある。

 

 

 

 

 

『東医宝鑑』

 

 

 

 

 

 

(1611年)
  
 近年、韓国テレビドラマに『ホジュン』という番組で取り上げられた太医・許?(ホジュン)が編纂した医書である。『朝鮮医書誌』(1956年自費出版)を著した三木栄は、この書を海東第一と賞したが、86もの医書を参考に、しかも庶民に手に入れやすい薬材を使った処方をまとめた『東医宝鑑』は朝鮮だけでなく、日本や中国においても高い評価を得て出版された。完成後間もなく日本へもたらされたが、享保2年(1717)9月、対馬の宗家から幕府へ献上される。この前年には疫瘡で約8万人余の死者が出たこともあり幕府はこれを活用しようとした。

 

 

 

 

 

『神農本草経』

 

 

 

 

 

 

(後漢の頃成立)
  
 『黄帝内経』『傷寒論』とともに漢方の三大古典のひとつとされる。伝説上の三皇のうちのひとりで、農耕の神である神農が草を嘗めつつ薬効を調べたということになっている。最古の本草書(薬物学書)であり、動物、植物、鉱物365種を収載。その薬効により上品、中品、下品に分類し、予防に役立つものを上とし、治療に使われるものは毒であるとする。500年頃、梁の陶弘景(452-536)が再編し、『本草経集注』を著した。『小品方』には陶弘景以前の『神農本草経』が残されていて、その旧態を伺う資料となっている。

 

 

『本草綱目』

 

 

 

 

 

 

(明代 李時珍(1518-1593)撰 死後3年に息子によって刊行)
  
 宋代に作られた『大観本草』『政和本草』以来約500年の後に編輯された本草書の大作。その編集方針は、それまでの本草書のように薬効で分類するのではなく、むしろ自然物としての特徴によって分類するもので、その収載数も1903種と先の本草書を上まわる。その姿勢は博物学への道程ともなり、わが国の江戸期には動植物や鉱物を研究する者も増えていき、医家だけでなく一般の関心をもひいて、西洋の博物学へとつながっていく。

 

 

 

 

 

『養生訓』

 

 

 

 

 

 

(貝原益軒(1713上梓 益軒84歳のとき))
  江戸時代の儒家、貝原益軒(1630−1714)が書いた健康法を説く本。益軒は若い頃黒田藩に仕官するもすぐに免職となり、江戸に出て医家を目指すも叶わないなど、苦労をかさねた科学者。親子ほども年の離れた夫人が病弱であったり、自らもさして丈夫ではなかったせいか、健康や医学に大いなる興味を持っていたという。『大和本草』や『養生訓』を書いたのはその最晩年で、夫人が62歳で先立ってしまう直前の頃であった。民衆に語りかけることを目的にしたこれらの本は漢文ではなく、和文で書かれている。その内容は心身の健康法であり生き方の指南書といえる。

 

 

 

 

 

『飲膳正要』3巻

 

 

 

 

 

 

(元代の飲膳太医・忽思彗が皇帝文宗に献呈する(1330年)。
 明代に刊行される(1456年序)。)  
 編者の忽思彗は宮中医として皇帝の飲膳の職にあったが、これを退いた後、歴代天子に親しく侍った人々が献上してきた奇珍異饌、煎薬、膏薬及び諸家本草、名医方術、並びに毎日必ず用いる穀肉菓菜の中からその性味が補益なるものを取って一書に集成した。養生についての諸注意、食事の注意、飲酒の注意、料理のレシピ、食材の解説がなされている。第3巻では229種の食材を図入りで解説してあり、本草書のようでもある。国土が広い元朝の書だけに、その取材範囲も広く西域や北方のものも扱う。現代でも薬膳書として読まれる。

 

 

 


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