『南北経験医方大成論』(以下、『医方大成論』という)は江戸初期から中期にかけてしばしば刊行され、その抄や解説書も数多く、大変広く読まれた。
『医方大成論』は『医書大全』の紹介の際にも触れたように、『医書大全』の中の"病論"だけを抜き集めて一書としたものである。岡本爲竹(一抱子)撰、『医方大成論和語鈔』の「『南北経験医方大成』発端之弁」にはおよそ次のように記されている。
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「中国、元の仁宗延祐年中(1314〜1320)に、文江の孫允賢と云う者あり、允賢は一代の良医にや、その伝何れの書にもみえず、孫允賢が諸々の書を考うるに古今の要方多く存ぜりと雖も、世人知らずして用いる事少きを患へて諸書の中より善良の方法を澤みだし、且つそれを用いて験ある所のものを集めて一部十巻の書とし、名付けて『南北経験医方集成』と云う。その書は専ら陳無擇が『三因方』、厳用和が『済生方』を主として編集す。その後、明朝において熊宗立が先祖に彦明公と云う者ありて、孫氏が撰する所の『医方集成』に劉河間が『医方精要』、『宣明論』、宝仙老人が『抜萃方』等を以て附録増益して、その名を改めて『南北経験医方大成』と号す。その後、さらに明の洪武年中(1368〜1398)に熊宗立と云う者あり、宗立四十六歳の時に『医方大成』を重ねて増益し、その名を改めて『医書大全』と号す。都て二十四巻の書とせり。
その集成より始りて後の大成、大全に至るまで、皆治療方剤の書にして『医学入門』、『医学正伝』、『万病回春』等の如き療治本なり、その『医書大全』の毎門の首に記す所の病論は医道の切要を述べて最も初学者の便りたらしむるに足れり、故に本朝においてその『医書大全』の病論のみを抜き集めてこれを一書とし、名付けて『医方大成論』と云う。
斯様に此書の由来を求むればその始めは孫允賢が『医方集成』に起り、中間は彦明公が『医方大成』、終りは熊宗立が『医書大全』なり。今本朝にして斯くの如く集むる所の諸論は『医書大全』の病論を以てするものなれば、この書もまた大全論と云うべし、或いはその始めの名を以て集成論とも云うべきを、何んにして中間の号を取って大成論とは云うや。案ずるに唐本の『医書大全』を視ずに内にはそのまま『南北経験医方大成』と記るせり、蓋し大成の号は熊宗立が先祖彦明公の号る所たれば宗立増益し改めて『医書大全』と号くと雖も其の内には旧き号をそのままに存して『医方大成』と記して改めずものなり、唐本の『医書大全』を視るべし。これを以て本朝において『医書大全』の病論を集めて一書となすに至っても彼の『医書大全』の本、内にそのまま大成と記したるに従って大成論と号るものならん歟。吾朝において『医書大全』の病論のみを抜き集めてこの如く一書と成すことは何れの代の何人の致したること知れ難し。あるいはいわく故道三なりと詳らかならず。」 |
ここにも述べられているように、『医書大全』の病論のみを抜き集めて一書となす作業は一体何人がなしたことであろう。
岩治勇一氏『谷野一栢をめぐる朝倉の医学考」(若越郷土研究 第18巻 第3号)に「医方大成論、按天文中、洛医吉田意守(宗桂)、鈔出是書(医書大全)諸論、題日医方大成論、以便初学越前一栢翁者、亦嘗爲之」とあり、また鍋島俊昌写、『医方大成論便講』越前一栢の条に、「大成論ハ医方大成ノ論ハカリヲ集ル也、此書越前一栢ニハシマルト云説アリ」と書き添えてある。
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