39. 大阪三井元襦眼目外障内障方函
幕末四大眼科と称して馬嶋、竹内、田原および土生の各眼科流派が挙げられていることはよく知られているが、同じ頃眼科で一家をなした家系に三井家があった。
三井家の始祖は藤原氏の出で、その何代か後の子孫が讃岐象頭山大麻山附近に住みつき、 さらに代を経て三井久助重長に至り、その子に新兵衛重行(元和6年〜元禄11年)があって、
この人が三井家眼科初代であるといわれる。その眼科の興りは新兵衛が讃岐国小松庄五条(香川県仲多度郡琴平町)に住んでいた頃(延宝年間)、尾州清岸寺(明眼院?)の住僧雪渓和尚(延宝年間蔵南坊の住職は第14代円清法印に当る)が金比羅大権現の金光院に滞在の折、新兵衛重行が雪渓和尚から眼病治療術を伝授されたことに始まると伝えられる。その後、三井家は三井道安、梅山の家系、三井善庵の家系および三井立悦の家系の三家に分れ、それぞれ医業を営み、ことに多くは眼科医として有為な人材を輩出させた。三井流眼科の興りは讃岐の琴平であったが三井善庵(重之)の大阪進出以後大阪三井流眼科としてその後系に良之(眉山)、善之(棗洲)らが相次いで現れ、大阪三井流眼科の名を高めた。ここに掲出の『大阪三井元儒眼目外障内障方函』(浜松、内田貞氏校訂)はこの大阪三井流眼科の一部を伝えたものと思われるが、
ここには本書と大阪三井流眼科の善庵、眉山、棗洲等に限って述べることにする。
大阪三井流眼科は三井善庵(重之)より独立し次いで眉山(良之)、棗洲(善之)と続き、 良之、 善之はそれぞれ元儒を襲名し、子孫も医を業とした。
善庵(名、重之、通称善庵、1708〜1748)は兄重信(梅山)の勧めで享保(1714〜1735)の末頃大阪に出て医業を営みながら眼科に関する諸説を輯め、寛保3年(1743)『銅関医通』16巻を著わした。善庵には子がなく、姉婿黒木式部大夫良春の第3子良之を養嗣に迎えた。
三井良之(号眉山、通称元儒、堂号梧陽堂、1733〜1784)は幼い時から善庵の兄梅山(重信)方に寄留していた関係で、善庵から眼科の教えを受け、後に善庵の養子になった人であるが、
よく眼科の研究に取り組み、大阪に留って三井流眼科の名を挙げた。良之の著書には
『眼目外障篇』(安永5年)、『三家学海』等がある。
また、良之の子、善之(字、文卿、号棗洲、 通称元儒、1766〜1833)も家方を伝えて眼科をよくした。嘉永元年の『浪華當時人名録』には善之の名に"浪華眼科之祖"とあるという。著述には『眼目図説』、『梧陽堂秘録』(2冊)等があるといわれ、
また、棗洲の蔵書印のあ
る眼科書に『新刻秘伝眼科七十二症全書』、『鼎雕官板饒光生家蔵眼科源流』、『傳氏眼科審視瑶函』、『秘伝眼科龍木総論』などがあったといわれ、
これらの諸書を善之は丹念に閲読したものと思われ、彼の勉強家ぶりがうかがわれる。筆者の手許にも『眼科方函』という書名の写本(内障。外障の部全1冊)
3種を蔵するが、 その1種には"浪華三井良之元儒"とあり、他の2種は"讃岐三井良之元儒"とある。この意味するところは明らかでないが、
ともかくこの本は良之が編集して、善之が増補しているようになっている。『眼科方函』は良之、善之親子の残した大阪三井流眼科の秘伝書の一つといえる。
天明から寛政の頃、各地に内障眼の手術を行う眼科専門の医家がいたが、その手術方法は各流派の間では極秘にされていて、その門人達ですら仲々伝授されなかったようである。良之はこうしたことを憂い、『このような手術は一人の手で多数の病人の全てに施すことは不可能で、広く門人等に伝授しておけばやがて門人らの働きによって一人でも多くの患者を救うことができよう』といって自分の門人という門人には誰にでもその法を教えて
やったという。こうした良之の脱秘伝主義がますます彼の人望を深めて行ったものと思われる。
そもそも三井家に伝わる眼科は曽て新兵衛重行が尾州清岸寺の住僧雪渓和尚から伝授されたといわれることから、あるいは馬嶋流と同系の眼科流儀であったのではなかろうかと思われるが、その家方とされる白内障の手術療法のごときは馬嶋流等の直鍼方と異なり、横鍼術といい、手術施行の際瞳孔を傷つけないように刀を眼球の側
方から入れ、それを一下して水晶体をそのままの形で墜下する方法であったといわれ、横鍼術はやはり三井新兵衛が雪渓和尚から伝授された流儀をもとに元禄年間に考案した家伝の秘術であろうといわれる(呉秀三)。
『大阪三井元濡眼目外障内障方函_|は41葉全1冊(23X165 cm)ょりなり、方函第1(25葉)、方函第2(8葉)、小児諸眼病方(5葉)、および内障鍼論(3葉)の順に記述されている。本書に所載されている三井流内障鍼論にはどのように記述されているか、以下その大要を記そう。
「五十歳以上ノ人ハ療治不叶、又頭痛持病ニアル人ハ療治スヘカラス、又瞳散大ナルハ難治、瞳開大成ハイヨイヨ悪シ不治也……中略鍼ヲ立ル時ハ三月、四月、五月ハ上旬許り、八月、九月、十月迄ナリ、夏暑ノ強キ時ト冬卜初春ハ鍼セヌナリ……中略……眼療鍼立ント思ハ先病人二心ヲ鎮サセニ便杯モサセテ後トクト落着セ而メ取掛ルナリ。尤天気快晴二無之時ハ鍼立ヘカラス。扨鍼立サル前二用意スヘキコトハ養生所、産椅、手拭如キ布ヲ堅四ツニ折置ナリ、綿少々、紙等調置也、右ノ眼二鍼立ルニハ病人ヲ仰セシメテ枕ヲ低クシ病人ノ頭ノ方へ座シ、逆マニ向ヒテ左ノ手ニテ眼フ開キ、右ノ手ニテ鍼ヲ持、小指ヲシカト顔二押営眼中右ノ上角ヨリ鍼フソロソロトモミ入ルナリ、鍼先ヲ見透シ居テ膿ノ中ニサシ入レ向際迄通ス也。此時病人二痛哉否卜度々間ヒナカラモミ入ル也、苦痛卜云時ハ其声聞ヨリ早ク鍼少シ引クナリ、此痛ハ肝関ノ際二鍼行故也、若少モ肝関二鍼入ハ失明スルナリ、此処大秘事也、不痛時ハ膿ノ向際迄十分二鍼ヲ入レアシ針ヲ立ル心持ニシテ、又後ニクルクルト何返モ針フマワシ膿ヲカキ廻スナリ、是又秘伝也、而シテ針ヲ抜ク時針ノ方ヲ見ル様ニサセテ眼ノ玉針ノ方へ行時モミナカラ抜也、此時針ヲ抜トー時二左ノ手ニテ玉フ押ナリ、膿飛出ルナリ、是ハ抜針二随ヒ左手ニテ押也、是又大秘伝ナリ、快ク膿出タラハ直二眼ヲ閉サセ調置タル綿ヲ中テ、又紙ヲ中テ、其上フ手拭ノ如キ布ニテ押へ後ロニテ縛リ置也、石綿ノ上二豆ヲ置キ紙フ中テ其上ヲ縛ルモアリ、夫ヨリソロリト起シ、暫ク動カサル様ニシテ後ソロリト養生所二入テ産椅二座セシメテウツムカズ仰向サル様ニシテ置也、荒ク動事大二悪シ、夜分眠ル共座シナカラ首ヲカタムケザル様二眠ル也、食物二忌物多シ、
又堅キ物フ食シテ頬ナドノ動クハ悪シ、和カナル粥二味噌様ノ物添ルナリ、香ノ物杯モ動テ悪キナリ、内薬ハ日日白?湯フ用ルナリ。左ノ眼二鍼スルニハ病人ノ左脇下二頭ノ方ヲ向テ座シ左右ノ手ハ前術ノ如クスヘシ、一度ニテ膿不尽時ハ三度モ三度モ鍼立ルナリ、見合ニヨルナリ、鍼後一旦ハ白クナリテ却テ悪キ様二見ユルナリ、一度ニテ膿去キラズ又鍼スルナラバ十日余モ過テ後鍼スヘシ、又両眼鍼スルコトモ有共一度ニスベカラズ、一方ニシテ十日余モ過、又一方へ鍼スルナリ、鍼後指薬二及ハズ、捨置少々ハ水ノ出ルモヨシ、若多ク出ル様ナラバ真珠極細末ニスリテ水ニテトキ疵ロニ少シ指ナリ、是ニテ疵ハ兪ルナリ、又、膿快ク出尽タラバ虎肉散ヲ指モヨシ、是又疵兪ルナリ、馬嶋ニテハ如是スルナリ、筑前ニテハ外ニテ臥臺ノ上二仰臥セシメ白張ノ傘ヲサシカケサセテ鍼スルナリ、又眼輪ヲツカウナリ、馬嶋ハ直鍼、筑前ハ中直鍼、大阪三井ニテハ横鍼ナリ、此横鍼ハ痛事甚敷也、
鍼後眼見へ初ルハ三十五、六日、四十日余ニシテ少シ見へ初ル也、始ハ瞳ノ上ノ方三ケ月形二晴レ初ルナリ、是ヨリ段々晴ルナリ」
以上が『大阪三井元襦眼目外障内障方函』に所載の内障鍼論であるが、鍼術実地要領は流派により多少異なり、その日、時刻、場所などを例にとってみても筑前の田原流、信州の竹内流、柚木流において晴天の日、朝五ツ時より四ツ時までの内、庭に最も日当りのよい処を選んで台をこしらえ、その上に床を用意し患者を仰向にねかせ、その上に自張の傘をひろげ、患者の眼胞に眼輪をはめて手術が始められたという、一方大阪三井流では鍼を
立てる時期を3月より5月は上旬、そして8月、 9月、10月まで、また夏と冬および初春は鍼を立てない。場所には養生所内が選ばれ、枕を低くして仰臥させて行った
とある。
横鍼術は三井家一子相伝の秘術とされてきたようであるが、三井元襦(棗洲)より大阪時代の親友土生玄碩に教え伝えられたといわれる。
本書は大阪三井(元孺)流眼科を伝えた秘伝書で、その内容は外障162方、 内障44方、 小児眼病方および内障鍼論について述べたものである。
なお三井流眼科書には以下の書名が挙げられている。
済明方函 三井氏著?
済明図鑑 黒木可亭著画
済明図鑑附録方論 三井可亭著
梧陽堂針術秘訣 三井元孺著
眼科発微 三井元孺家伝、斎藤方策口授 南部伯民筆記
眼科秘訣 三井元儒内障鍼術、三井家眼療雑識
(第39回医家先哲追薦会記事による)
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図1 大阪三井元孺眼目外障内障方函
第一巻頭。浜松・内田貞氏校訂本。
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図2 図1と同書。内障鍼論。 |
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図3 白内障横鍼・直鍼之図(淡彩色)。
中川明甫編輯『眼科要略』所載(文久4年刊)
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図4 『眼科方函』 外障部。浪華、三井良之
元孺編、三井善之文卿増補。
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