明本覆刊の大永版『医書大全』には編集者鼈峯熊宗立道軒と記されているが、『医方大成論和語鈔』には本書の成立に就いて、「元の仁宗の時、文江と云う所の守護に孫允賢と云う人がいて、この人が陳無擇が書いた『三因方』、嚴用和が著した『済生方』の中の要文を抜いて、それに昔より名医どもの書きしるした要文を加えて『医方集成』と名づく。その後、明朝に至って熊彦明公が『宣明粹方』を撰んでこの集成を加えて、『医方大成』と外題を付けた。その後また、熊宗立と云う医者が自分が用い覚えたことを書き加えて『医書大全』と名づけた。」(岡本爲竹一抱子撰、『医方大成論和語鈔』元禄15年刊)と解説があり『医書大全』の原本は中国・元の孫允賢の『医方集成』に遡り、再三の増補改名に依り成立したことがわかる。
このいわゆる大永版『医書大全』の巻末には幻雲寿桂(釈寿桂、字月舟、別号幻雲、江州の人、初め越の弘祥、善応の二寺に住す、永正年間洛の建仁寺に遷る。『史記抄』の作者、天文2年12月8日示寂)誌として次の如き跋が掲げられ、『医書大全』のわが国での刊行を称讃している(図5、図6)
「吾邦以儒釋書縷板者往々有焉然未曾及医方恵民之澤人皆甚鮮近世医書大全自大明来固医家至寶也所憾其本稍少欲見而未見者多矣泉南阿佐井野宗瑞捨財刊行彼旧本有三寫之謬令就諸家考本方以正斤両雖一毫髪私不増損盖宗瑞之志不為利而在救天下人偉哉陰徳之報永及子孫矣 大永八年戊子七月吉日 幻雲寿桂誌」
これによっても窺えるように室町時代末から戦国時代にかけては、医書の開板は極めて少なく、明国や朝鮮等から輸入される医書の数も極くわずかで、輸入医書は当時の医家の至宝的存在であったが、医方の民衆への恵みは十分でなかったと考えられる。こうしたことに逸速く気付いた宗瑞は病める人を救済するために私財を投じて本書の明版覆刻を敢行した。誠に称讃さるべき壮挙である。
『医書大全』は明の成化3年、熊氏種徳堂より初めて刊行されたものと思われるが、わが国においては大永8年版(研医会図書館蔵本は無刊記)以外に刊記入りの重刊、異版はこれまで見られないようである(『医学源流』古活字版 慶長16年、元和7年刊、整版 元和9年刊有り)。これだけの大著にどうして重版が見られないのか、むしろ不思議に思われるが、大永版も覆刻刊本故、日本人向きの訓点、句読点も附されていなかったので世の多くの医家に容易に馴染めなかったのではなかろうか。そのため『医書大全』の中から病論のみを抜き出して纏めた『医方大成論』という一書が作成された。これが大変世の多くの医家達に受け入れられたものと思われ、そのカナ抄や和語抄も著され、江戸時代になってからも『医方大成論』の刊本が数種類出版されている。
このように大永版『新編名方類證医書大全』は室町時代の医家の最新最高の名著として、また、わが国最初の刊本医書として貴重な文献であり、秘伝主義の下、一流一派を競っていた時代に本書のような刊本が出されたことは脱秘伝主義への口火となったこととしても誠に意義深い。
大永版『医書大全』に附刻された幻雲壽桂誌その刊行讃辞
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