2012年
科学技術週間 イベント
「江戸時代の眼科の本」 (展示会)
この催しは修了いたしました。ご来場、ありがとうございました。
展示した本のリストはこちら
研医会図書館では、毎年文部科学省の科学技術週間にあわせて本の展示会を行っております。
今年は当財団の当初の目的であった眼科の図書館としてのコレクションを展示いたします。
起源はインドの龍樹菩薩の眼科治療にあるといわれる『眼科龍木論』や、平安時代から行われてきた眼科手術の秘伝書、隋唐時代から伝わる眼科薬方についての古書や江戸期にオランダ医学が入ってからの眼科書などをご覧ください。
日程: |
4月16日(月)〜4月22日(日) この週は木曜日も開館します。土・日の見学はご予約ください。 |
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開催時間: |
9:00〜17:00 |
開催場所: |
中央区銀座 5−3−8 財団法人研医会図書館 |
交通: |
東京メトロ銀座駅 徒歩5分 ソニー通り |
対象: |
小学生以上 |
入場料: |
無料 (眼科診療所受付よりお入りください) |
主催: |
財団法人 研医会 |
問い合わせ先: |
研医会図書館 e-mail: [email protected] |
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* 図書館ご利用の方は電話にてご予約ください。 03−3571−0194(代表)
2012年 科学技術週間 「江戸時代の眼科の本」 展示本のリスト
1.銀海精微 唐 貞観10年(636) 孫思バク 原輯? 図1 図2 図3 リストへ戻る
我が国で眼科専門書の翻刻が行われるようになったのは江戸時代に入ってからのことで、小川剣三郎博士の眼科年表によると寛永18年(1641)に『銀海精微』の翻刻が行われている。本書の著者については、その序に「銀海精微二巻未知何人氏所撰著…」とあり、明末清初版の1本によると「唐、孫思逸原輯」とあり、
また、衰学淵輯『秘伝眼科全書』(1688年刊)には「田仁斉が銀海精微、論」とあって明確ではない。内容はいわゆる中国古典眼科の神髄をなす五輪八廓説に基いた眼病治療方法を述べたものであるが、
この五輪八廓線論は熊宗立の『新編名方類證医書大全』の眼目門や衰学淵の『秘伝眼科全書』に全く同文で所載されている処からみると、本書の五輪八廓總論が基になったものと考えられる。
2.医心方 永観2年(984) 丹波康頼(912-995)・撰 江戸医学模刻半井本(安政版)影印 リストへ戻る
『医心方』は平安時代から伝わる我が国最古の医書である。丹波康頼が隋唐医学を日本の事情に合わせてまとめたもので、眼科についても言及されている。白内障手術は紀元前3000年頃から行われ、古い歴史があるといわれているが『医心方』第5巻にも"治目清盲方"の項目として載せられている。これは印度眼科に発し、中国で扁鵠や華陀が行ったと言われる白内障の手術法である。こうした『医心方』の技術は、その後眼科諸流派に伝わり、揆下法、墜下法、裁開法、破壊法など"針たて"と呼ばれる方術として行われてきた。往時は白内障というのは瞳孔に混濁した液がたまったものと考えられていたが、17世紀に入って、これは水晶体そのものの混濁であることが明らかになった。
3.聖済総録 リストへ戻る
『聖済総録』200巻(1111‐1118)は、北宋第8代皇帝徽宗の勅によって成った医書である。徽宗は自らを「道君皇帝」と称し、熱心に道教を信仰したが、この道教においては養生長生ということが中心的テーマでもあることから、健康や医療に関する事業には熱心だったようで、『聖済総録』編纂もそうした事業のひとつといえる。靖康の乱(1126)の折、金軍に攻め入られて都城・開封は陥落、翌年には徽宗と欽宗は捕らえられてしまうが、その時、宮廷の宝物や家具などと共に『聖済総録』の版木までも持ち去られてしまう。そのため、南宋においてはこの本は知られることなく金元でのみ刊行される。臨済宗禅僧、策彦周良に同行し明に渡った吉田宗桂(意庵・日華子)は、世宗嘉靖帝に謁し、その病を治した功績で元版の『聖済総録』200巻を賜った。『聖済総録』眼目門には「鉤割鍼鎌法」という鍼による目の治療についての記載があり、外科的治療が行われていたことが伺える。
4.玉機微義 図1 図2 図3 リストへ戻る
『玉機微義』は金・元医学の四大家(劉完素、張従正、 李東垣、朱丹渓)の学を伝える私撰の医学全書であるが、元末明初の医家、徐用誠の著『医学折衷』を劉純(明
陳西威寧の人、字=宗厚)が増添した治方の書であるともいえる。その編集は、疾病を分類し、病因を論じ、治法をのべ、それに用いる薬剤を挙げている。また、その所説は中国古代の医書『内経』から宋、金、元代に至る諸書の医説であり、眼科においても目と五臓六腑との関係、五輪八廓説を基本に述べられている。展示の『玉機微義』は、外題箋下部および眉上位に道三自筆の"遂次詳閲"という書き入れがあり、巻末に「右全部五十巻以他板印本具遂参伍於弁異別治聖教賢規之処加愚筆導斎下後学者之 天正第二甲戊年自七月二日至八月三日洛下雖知苫戸蓋静翁道三(花押印)」という道三自筆の書き入れと蓋静翁花押および押印が認められるものである。
5.眼科竜木論 図1 図2 図3 リストへ戻る
『眼科龍木論』は『秘伝眼科龍木医書總論』 10巻と『保光道人秘伝眼科龍木論』 首巻1巻(全4冊)よりなる。中国で最も古い眼科専門書と考えられ「800年伝えられてきた書物ではあるが、内容に誤字脱簡も多いからよく確めて治療の助けとせよ」と評される書物である。明版あるいは明末清初版の他、多数の写本が伝えられ、その広く用いられたことが窺える。多くの刊本・写本があるため、その題名も『秘伝眼科龍木医書總論』『秘伝眼科医書總論』『秘伝眼科龍木医書 (保光道人秘伝眼科)』『秘伝眼科龍木論』『秘伝眼科龍木總論』などさまざまある。富士川游博士が「我邦ノ中古ノ眼科ハ純然タル唐宋ノ眼科若クハ之ヲ用フルニ方リテ少シク取捨刪削ヲ加ヘタル唐宋眼科二外ナラザルナリ」と述べているように原型は唐宋時代の眼科で、さらに遡ればインド眼科であったため、龍樹菩薩の著した眼科ということでこの書名がつけられている。
6.麻嶋灌頂小鏡之巻 図1 図2 図3 図4 リストへ戻る 解説(研医会通信)
馬嶋流眼科は室町から江戸時代にかけて最も名声を勝ち得た眼科流派であるが、その起りは延文2年(1357)に医王山薬師寺(寛永9年明眼院の名称を賜る)が馬嶋清眼僧都(?−1379)によって再興され、その清眼僧都が祈祷や祈願とともに眼病治療を始めたことからと伝えられている。小川剣三郎編『稿本日本眼科年表』
によると朱雀天皇天慶元年(938)の条に「尾張国馬嶋薬師寺の宗慈坊(後に大智坊と改む)天慶の頃より眼科を創む」とあり、平安朝時代から眼の療治らしいことが始められていたとも考えられるので、その歴史は古い。馬嶋流を伝える写本には幾通りもの本があり、馬嶋の「ま」も馬、麻、摩、間、真、満のようにさまざまな字が使われる。しかし、その内容は五輪八廓説に基づく疾病理論、
五輪所属図、薬種、その功能および用い方、眼目養性之次第(眼病図入)、七種の内障(そこひ)絵図などで、ほぼ同様である。秘伝とされるだけに、刊本はない。
7.審視瑶函(眼科大全) 図1 図2 図3 リストへ戻る
中国では元の代に至ってインドとの交流が盛んとなり、 佛教とともにインドの眼科が中国に入り、明代にその最盛期を迎え、『龍樹菩薩眼論』『眼科竜木論』『銀海精微』『眼科全書』『眼科百効全書』『原機啓微附録』『明目良方』『明目神験方』等眼科の専門書が次々と著わされた。ここに採りあげた『審視瑶函』も明代に著わされた眼科専門書の一つである。『審視瑶函』は『傳氏眼科審視瑶函』あるいは『眼科大全』といわれ、傳仁字(字は允科、明末の人、眼科専家)が編集した眼科専門書である。初め傳仁字が編集したものをその子、傳国棟らが軒岐に始まり、李東垣、朱丹渓、張従正、劉河間の金元医家に至るまでの諸書およびインド医書の訳本を広く参考して改訂増補し、『審視瑶函』の書名をつけて発刊したものだろうといわれている。(小川剣三郎博士)『證治準縄』からの引用が多いことも知られている。
8.原機啓微 図1 図2 図3 リストへ戻る
中国 (明、清代)で行われた眼科専門書の中、わが国に輸入され、翻刻されたものに『銀海精微』『眼科全書』等何種類かあるが、『原機啓微』もその一つである。その上巻には眼疾の原因および治法を論じ、下巻は用薬の理、附方を、また附録には各証を論じ、附方に方剤、治法を述べている。『歴代名医略伝』(吉田意安撰、寛永10年刊)によれば「侃維徳…、字ハ仲賢、敷山卜号シ、三呉ノ名儒医也、…
…医説及原機啓微ヲ著ス……」とあり、また、丹波元胤編『中国医籍考』によれば『原機啓微』に洪武3年(1370)侃維徳の序が記されていることから、本書は明代の初め侃維徳に係る書であることがうかがえる。『銀海精微』に次いで翻刻された中国古典眼科専門書であり、簡潔にして條理のある眼科書として、17世紀初めの日本眼科に広く行われたものと思われる。
9.豁開活眼睛 図1 図2 図3 リストへ戻る
当館には2種類の『豁開活眼睛』がある。この時代は各流派において最も重視されていたのが内障の針術すなわち針を立てることであったようであるが、本書にはその内障の針について、築紫玉泉坊流の項に詳述している。これは伊勢の国谷野坊伝授の方といわれ、図入りで記述している。大治町史第二集・『馬嶋流眼科と明眼院』によれば、国谷野坊は現在の三重県度会郡玉城町矢野の寺らしい。手術の事細かな注意事項などが書かれ、読んでいるだけでも緊張してしまう。また目の養生法も書かれ、「一、生五辛、二、麺類、三、熱物、四、夜事多不呑、五、淫乱、六、疲レ遠見、七、
日月二向テ光ヲ不見、八、星見事、九、細字見事、十、月ノ光ニテ物書事、十一、ソゾロニ物書事、十二、細工セズ、十三、バクチ、十四、 目ニ煙ヲ入ル事、十五、泪垂テ啼事、十六、初物食事、
コレラ十六箇條皆目ヲ損ウ基也」とある。
10.馬淵流目伝書 図1 図2 図3 リストへ戻る
この写本は延宝9年(1681)1月24日、従学翁の伝えとして書写相伝されたものである。全1冊横長本、およそ60丁よりなり、その前半42丁に馬渕流を掲げ、後半18丁には望月流の眼目書を載せている。前半42丁には馬渕流の日々の治療についての要領を備忘録的に記述した「目之薬一流」と眼疾の治療法、洗薬、指薬等について述べる「眼目捷経切紙」(巻1〜
9) がある。内障針術を行ったこの流派では「目醫療具」の項に「長サ三寸ノ針ニツ、血ヨリ(カミヨリ)一ツ、毛ヌキーツ、捻針ニツ、銅皿一ツ、銅張一ツ、薬皿一ツ、天目大小三ツ、鴨羽析ノ枝紙ヨリ」等が挙げられている。烙法には熱金(アツガネ)、温金(ヌルガネ)等が用いられた。流派独自のものはなく、他流派の要点をまとめて馬淵流の秘伝とした書といえる。
11.秘伝眼科全書 貞享5年(1688)翻刻 図1 図2 図3 リストへ戻る
本書は翻刻以来およそ1世紀以上にわたり、 日本の眼科諸流派の最良の教科書となったともいえる書である。それは、かの土生玄碩(1762〜1848)が本書を学び評していることからも容易に窺い知ることができる。眼科の五輪八廓説によって、眼球内部に病因のある疾患24症と、外眼部に病因のある疾患48症を詩歌詠式により説いているのが特徴となっている。この貞享版は、哀学淵(武夷の人、晴峰と号す)輯著 楊春栄繍梓となっていて、その跛によると青木芳庵(竹雨斉青木東庵の同族、眼療に精しく法橋に叙せられ、御医となる)によって和点が施されたことが窺える。また、本書の広告欄に「この本は眼目の病論、治法、得効の薬名等悉く備れる眼療の秘本なり」とあるように、当時日本で翻刻された中国眼科専門書としては最も流行ったものであった。
12.眼科医療手引草 リストへ戻る 解説(研医会通信)
元禄2年(1689)日本で初の眼科書『眼目明鑑』が刊行された。その19年後の享保11年(1726)、藤井見 纂輯、長岡恭斎 校正で『眼目精要』『医療羅合』が同時刊行された。その後、
その内容を変えずに、一部文字の入替を行って出版されたものがこの『眼科医療手引草』である。本書の刊行は、書写による秘伝書形式から刊本化を促し、従来の眼科諸流派の秘方主義を打破する糸口となった。『眼目精要』と『眼科医療手引草』との関係については昭和5年(1930)に小川剣二郎博士が中外医事新報(No.1166 P.571)に詳細な研究発表をされている。総合治療全書ともいえる『医療羅合』のいろは順分類には"めの部"も挙げられているにもかかわらず、何故眼目と小児の部門のみを独立させたのかは不明だが、この部門を藤井見隆がより重視したものとも考えられる。
13.大阪三井元襦眼目外障内障方函 図1 図2 図3 リストへ戻る
三井家の始祖は藤原氏の出で、その何代か後の子孫が讃岐象頭山大麻山附近に住みつき、さらに代を経た新兵衛重行(元和6年〜元禄11年)が三井家眼科初代といわれる。三井善庵(重之)の大阪進出以後大阪三井流眼科としてその後系に良之(眉山)、善之(棗洲)らが相次いで現れ、その名を高めた。三井家に伝わる眼科は曽て新兵衛重行が尾州清岸寺の住僧雪渓和尚から伝授されたといわれることから、あるいは馬嶋流と同系の眼科流儀であったと思われるが、白内障の療術は馬嶋流の直鍼方と異なり、手術施行の際、瞳孔を傷つけないように刀を眼球の側方から入れ、それを一下して水晶体をそのままの形で墜下する横鍼術であったといわれ、横鍼術はやはり三井新兵衛が雪渓和尚から伝授された流儀をもとに元禄年間に考案した家伝の秘術であろう(呉秀三)といわれる。
14.眼目暁解 図1 図2 図3 リストへ戻る
根来東叔(京都の眼科医)は1732年人骨を観察して写生し、それに説明を加えて『人身連骨真形図』(1741)と題する一書を作った。ついで『眼目暁解』(1742)を著わしたが、この書には眼球内景図が載せられた。東叔は自らの経験から、白内障は眼球中央部の病であると、その部位の解剖学的位置づけをしているといわれる。今日のような眼球図に比ベることはできないが、この時代、次第に眼球内部の解明が進みつつあった。これは根来東叔の創見であったといわれている(小川剣二郎)。根来流関連では、『根来流眼目秘方』もあるが、その中には『眼目暁解』にあるような根来流の由来については語られていない。根来寺から伝えられた眼科をもって後世紀州から大阪、京都に進出した根来家により受継がれた根来流眼科が、東叔の代に至って近世諸家の秘要を加えて大成した秘伝書と考えられる。
15.古今精選眼科方筌 中目道c(名-詰、号-樗山 1808〜1854)著 図1 図2 図3 リストへ戻る
中目道cは文化5年、仙台藩医の次男に生れたが早くより眼科を志し、17歳の頃家をでて各地の眼科名家を訪ね教えを乞うたと伝えられる。江戸に土生玄碩・玄昌、徳島に高錦国、大阪に高良斉、武蔵に本庄普―、尾張に馬嶋円如、筑前に田原養柏、信州に竹内新八郎、三河には竹内玄洞等が眼科名家としてきこえており、道殉はこうした大家を訪れて、白内障手術の腕をみがくことに努めたという。『古今精選眼科方笙』の他『古今精選目病真論』『眼科摘要』『眼科療治雑話』『中目本草』『眼科錦嚢正誤』『眼科真宝』の著書がある。『古今精選眼科方笙』は薬剤について、『古今精選目病真論』は手術療法について記述されたもので、いわゆる漢蘭折衷眼科に類する。修業中、白内障鍼術を窮めようとしばしば魚眼を実験台にしていたが、遂にある日機会を得て手術に成功したという逸話が伝わっている。
16.東雲流眼科秘録 リストへ戻る 解説(研医会通信)
『東雲流眼科秘録』は異なる書名が付けられているものもあるが何れも眼科馬嶋流、馬嶋大光坊の家伝である。その内容は
巻上 眼疾見定書(眼病論): 五行配当図、八廓易配、諸眼図(84図)
巻中 処方部38種、当家の極秘方7種
巻下 経験大秘方: 家伝12方(掛け指しの点薬)、家伝6方(洗い蒸し点薬)、眼病目名録102種の疾病。
また、15眼病の治療が肝要であるとして、以下のものを挙げる。
1.内障(青、白、黄は治あり、黒、赤は難とす) 2.外障(瞳子根あれば難とす、無いものは皆治あり) 3.虚限 4.中障 5.上衝眼 6.輪月眼(日の輪) 7.風眼 8.焼目
9.目毛(逆毛、突毛) 10.打突眼 11.血眼 (経膜、諸膜) 12.諸星 13.瘡目 14.爛目 15. 目菌、 目蛭、経血目
17.江源流大灌頂錦嚢眼科秘録 馬嶋高慶の花押あり 図1 図2 図3 リストへ戻る
内容見出し項目を拾ってみると
第1冊(天): 龍樹醫王論、風熱不制之病論、眼科用薬次第法、病論薬方、口授秘伝之?(こと)。
第2冊(地): 眼病絵図入治療法(分膜他43個)眼丹眼胞眼痔図入、内障之図眼目見様之?、開金針法、観音呪、家伝口授内障鍼之法、眼科用葉次第法。
第3冊(人): 禁食之?、内外通禁之?、金石薬銘効能製法之?、眼病体図(彩色絵)12個、眼病絵図入治療法38個。
となっていて、他の多くの漢方眼科書が明医学を基にしているのに対し、隋唐医学を基にしている書とみられる。巻末に花押を残す馬嶋高慶なる人物に関しては不明。白内障等ソコヒの類は薬物のみにては治りにくく、口伝の針法神術を以て治療しないと治癒しにくいと述べている。
18.獺祭録 土生玄碩 口授 図1 図2 図3(別の写本) リストへ戻る
獺祭とは、獺(カワウソ)が魚を並べること、転じて多くの書籍をひろげちらすことという。土生流眼科は足利時代の昔から秘伝書により代々受け継がれて玄碩に及んだものと思われるが、玄碩以前の眼科についてはその資料も乏しく明らかではない。西洋流実験的眼科医の始祖といわれる土生玄碩の事蹟については多くの研究があるが、この『獺祭録』や門人時岡玄岱が補足したという『銀海波抄』、『師談録』等によってその学説や手法を窺い知ることができる。本書には載せられていない秘伝の手術法として開瞳法(仮瞳孔術)と直針法、横針法による白内障手術があった。開瞳法は横針法による手術を行った折、白翳は墜ちずそのままで虹彩の結膜に近いところに小さい孔があいたために復明した事例から発明された方法だという。この発明を機に玄碩の手術室には「迎翠」という扁額が掲げられたと伝えられている。
19.眼科精義(柚木流) リストへ戻る 解説(研医会通信)
柚木太淳(字 仲素 号 鶴橋 京都の眼科医 〜1803)・講義 加門隆徳・撰
柚木太淳は寛政9年(1797)官に請願し、許を得て、 その10月に一刑屍を解剖し『眼科精義』『解体瑣言』(寛政11年刊)等を著わした。柚木太淳の眼科は、門人加門隆徳がその学んだ内容を撰述、門下倉内直によって筆記された『柚木流眼科書』にまとめられている。柚木流眼科書の写本は化政年代以後大変多くの異本が見受けられるが、それはこの書がそれまでの秘伝書と異なり、眼病の分類を解剖的分類法を加味して行っていること、眼球を解剖してその構造を研究し実験臨写の諸図を示していること、あるいは白内障手術について詳述し、その器具もかなり改良された多くの種類が掲げられていたからだと思われる。本書に人体解剖知識が多く盛り込まれた理由には柚木太淳が、眼病が全身病に関係あることに注目したことがあるといわれている。
20.留春園眼療原秘録 (竹内主人 著録 浜松 内田正 精写) リストへ戻る 解説(研医会通信)
慶長年間、伊東丹後守は大坂城落城の時、川角村(愛知県北設楽)の竹内新右衛門を頼り、その近くに居を定めた。家来中島惣兵衛が身を六部にやつして薬師仏を背負い、主人丹後守を故郷へ訪ねる途中、一人の僧が惣兵衛の忠節に感じ、眼科治術一巻を授けた。惣兵衛は川角村で眼科を業として主人を養い、終に業を丹後守の子、玄撮に伝えた。丹後守は竹内姓を名乗り、名を尉と称した。これが竹内家初代であるという。この『留春園眼療原秘録』は諏訪竹内流眼科を伝えたものと思われるが、その著者は、何代めの者の著録であるか明らかでない。竹内流は『家流眼療秘術再伝書』の中に「竹内猷曰、雀目症余家別有一秘方、不同大人小児是真百発百中之奇剤矣
(中略)則東垣蘭室秘蔵、 経験方、 眼目論、 古今医統、 医学網目、銀海精微之見可参考」とある処より、明らかに明伝来の眼科を採り入れているといえる。
21.生嶋殿相伝眼科秘伝書 図1 図2 図3 リストへ戻る
本書は表紙や巻頭の部分を欠き、書名や書写年代等不明であるが、末葉の1行に"生嶋殿相伝也"と判読できる識語がある処より、秘伝書の類とわかる。成立年代も定かでないが、片仮名文字の特徴、朱描眼病図の退色度合等からみる限り、あるいは江戸時代中頃の写本かと推定される。内容は眼病療治、懸切の事、禁物、好物の事、針立次第の事、五臓論治の事、薬物の事、眼目病論治の事等について述べられている。眼病療治に挙げられた病名はおよそ26を数え、その各々に素描の眼病図を付し、治療方法を述べている。また、懸切の方法については特に詳しい記載がある。懸切(掛切)というのは一種の釣(切カマ)を使用して血管をひきかけて裁断する方法と伝えられ、14項目の切法が記されている。明代の眼科を基本としながら、食物と眼病について着目し、懸切について詳説しているところが本書の特徴といえる。
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