眼科諸流派の秘伝書(35)
44.医事眼療雑記
この 『医療雑記』は31葉、全l冊(25.3×18.3cm)よりなり、 後世において写し伝えられたものと思われるが
その書名に示されている通り眼科諸流派の秘伝書を断片的に収録したものである。その主な見出しには「眼目論 」「鳴先生秘伝」「相州一眼科伝」(近藤氏方)及び「橘本流鍼術論」(花岡良平伝之)等が挙げられているが、本稿にはその「橘本流鍼術論」精写全文を掲載し参考に供したいと思う。
橘本流鍼術論
金鍼之術者、専門家之所難也、今我為門生者、粗述其
術焉、夫鍼術之眼症者、皆膿内障之症也、其症而最多
端、凡瞳内神水白色、而疑聚者、即呼之為膿内障也、而
或有瞳之中央、 一點星之障、 或有瞳之偏際、 如鋸歯之
障、或有瞳之中偏、如花形族容之障、或有瞳内満地之
障、病形雖有不同行於其手術皆同一耳、其症之初因或往
昔撲頭、或落干高、或熱病唐疾後、或婦人産後、或痰飲
壅寒、或酒食過飽之者、或小児従胎而有患此症也、其患
之初起不疼不痒不赤不○(=目+多)又無蠅花症、唯視物朦々瞳々猶
居姻霧哀于此時診視其眼中瞳内神水現淡白色、既経数
月、而神水漸凝白遂不弁三光、此乃鐘内之神水、化膿而
凝結者是也、豈百薬之力能可治之矣、而神水虧(き)之、或瞳
之円形缺結者、不可謾揆之、先弁其瞳内神水多少、
若水気多、而膿色不鮮明者、鍼之難奏効焉、水気多、
而光沢宝撒者、鍼之易奏効焉、其金鍼者、有横鍼直鍼之二也、
量視膿水之深浅多少、而為横直二鍼之別、用大抵膿之浅
而淡薄者、多用直鍼、深而濃結者、多用横針、揆之也、
常不可軽其術也、誤過則令病者為長夜之人矣、難乎鍼術
也、行其術、必避寒暑之時、宜和涼之時、避陰晦風雨之
日擇吉日全晴之日、須辰已之剋、其前病六七日、令服香
飲子対金飲子之類、服数服、教気息為快然、臨機之時、
先禁避傍人喧雑無用者、而新水一盆、放於?上令病者自掬
水、以頻々淋洗其眼胞上、数十遍、服胞及手指冷定為度
而止、是乃令眼内脳脂、得水寒而凝凍不散也、
蓋有春寒秋涼之日、
及老幼虚弱之者不用此水術也、而平地無樹陰地、
敷筵三四枚、又加重之以氈、使病人仰臥、其氈上、
医自以屈膝頭、使病者為枕之、若不便利、則別外為之與
枕、而抉一人、以新油紙雨傘、掩蓋日影、当此時、医者
凝神澄慮、以右大次二指按開其、眼瞼上下、更以左次中
二指、挑定眼瞼上下、令其眼珠轉晴、如努出状、右大次
中三指、捻正金鍼、徐々移指於鍼柄盡処、而撚進也、横
鍼者、鍼穴外眥或内眥之一辺、 黒晴白眼之堺、而入黒
晴、凡梗米半粒許、此其鍼穴也、撚下横向瞳神進、既及
瞳中時、鍼鋒轉上環下、轉下環上、 上下左右、周旋揆
之、則膿之凝結者、溢於瞳子外、或随金鍼捺於精華膜
上、或紛々乎離散也、直鍼者、鍼穴在瞳之正五也、撚下
而周旋、上下左右之手法猶前也、並皆量視於膿之散乱、
而口鍼、鍼退去也、於鍼退時、左次中二指、最多手術、
鍼鋒在干眼内、過而劃損於精華膜則鍼後其眼疼痛、白眼
現血色、再不能得光明矣、鍼術也、可慎恐焉、不可忽之
也、葢家傳名精華膜者、瞳子之表面、金色羅紋者、是也、
鍼後治療之法、家方清玉膏、調和干人乳、點入其眼内、
而命病人以乎掌軽令掩其眼胞乎旁人扶起透入暗処、
固禁開眼、而以清涼膏、調和干清華水凸塗傳其眼胞上、
凡約大豆二粒許、又別以染黒絹、量計其眼胞之上下左
右、大剪如卵形也、凡縦二寸、横二寸半許、以万能膏環
傳其黒絹之辺端約二三分許、用之以鎮封其上、
葢要無開視也、而以蒲団畳重、如馬鬣(たてがみ)形、
使病人背倚其上、要無頭低眼也、恐頭低、則瞳之膿者、
復奮矣、此之保養用薬之法、一七日而止、又一方、
針後木綿布手○(巾+兌)方三寸許者、
浸入干水錐中、冷定為度、以使労人○(くさかんむりに煕)其眼胞、
手○(巾+兌)温則更之、凡行此法也、一周?而止、
葢春寒秋涼之日、及元気虚弱之者、不行此法之亦隹也、
既歴数日、而點眼之薬方、家方五霊膏白霊膏通明膏之三方、
服薬之方、洪聴天経験方之二方、可選用也、加減参差之薬、
所謂医者意也、不処書而可傳也、素有痰飲壅寒之人、
鍼後作嘔吐者、宜小半夏加茯苓湯、或二陳湯加宿砂仁烏梅之類、
而禁用生姜、古人日、生姜者嘔吐家聖薬也、雖然生姜之辛温、
鍼後不堪用之、時珍日食姜久積、熱患目、乃可為證也、
傳日、鍼在干瞳内、而其眼見物、開封及不見物者、
其人虚也、今考之、鍼在干瞳内、上下左右旋轉、乎開揆之、
膿者離散、而得光明也、下工者不能開揆之、凝膿粘干鍼鋒、
膿従鍼上下左右旋行、鍼鋒旋上、則膿亦上也、
下而有得微見物、鍼而不奏効者也、若鍼後膿色全散、
而猶不能視物者、此則其人素虚也、玄武天加鹿茸地黄丸之類、
滋補之而可也、嘗傳日、下工者、行斜術、先量見於
鍼穴瞳仁之相去幾分許、以淡墨點、卯其針上、而撚進、
則庶無過不及之感乎、自謂医之意、在鍼鋒頭、則何頼淡
墨之卯哉、以淡墨之卯、託其神術焉、不異軽試於人目也、
此諸不専門家之論、不足数用也、難乎針之神術也、
過則医之罪、豈有所逃癸、先君子嘗日、当進針之時、
干法遅縵、或酒客輩、 目中紅緑血縷者、功勿驚、
懼猶法揆之也、或幼先婦女虚弱之者、鍼而膿之離散、
未全退者、経一七日、再針之而可也、針而莫向日光風虚也、
百日禁於飲食過能震牙之物、及生冷粘滑肉麺五辛酒酪臭悪等之
物、一年戒房事、及力動也、若破此禁戒則有不慮之患也、
不可不慎焉、云爾。
この様に橘本流鍼術論には鍼術を施す眼症、膿内障の種類に始まり、鍼術の要領、鍼術後の禁物や飲食養生のことに至るまで詳述されている。その中で、橘本流の金鍼には横鍼直鍼の二法があって、膿水の深浅多少によって横直二鍼の使いわけをなし、膿水の浅くして淡薄なものには直鍼を用い、膿水の深く濃い場合には横鍼が多く用いられたというところには注目される。かように橘本流においては既に横鍼直鍼が膿内障の治療に用いられて
いることが窺えるが、 この方法が橘本流独創のものなのか、あるいは中国等大陸からの伝来ものであったかさだかでない。
橘本流眼科の由来に関係する記事として、文献資料によると、文禄の役(1592)か慶長の役(1597)の際、張膏(字甘子、提山と号す)という人が日本軍の俘虜となってわが国に連れてこられたが、その滞在期間中に眼科を善くしたといわれる。
この張膏に従って眼科を学び眼
科医となった人が村上源氏の苗裔赤松則村の子、則景(渡辺勘兵衛に撫育され後にその姓を冒す)であったといわれ、その後渡辺氏は則政
池田伊予守医師)、則之(高松蕃松平讃岐守医師)、則智 (江戸渡辺立軒の祖、幕府医師)等代々続き立軒を襲名したと伝えられる。しかし、橘本流を渡辺氏の則景、則政、則之ら何れが唱え始めたか、またそのいわれについても明らかではない。なお、享保16年(1731)に渡辺立軒『思明温和編』5巻を編集(小川剣三郎編『橋本日本眼科年表_)と記載されているがこの人が江戸渡辺立軒の初代ではなかろうか。
このように橘本流眼科の源流は大陸より伝来の眼科と推察されるが、その眼科の全体を把握することは資料の散逸もあって困難である。本『眼療雑記』に記述された橘本流鍼術論はその眼科の一端を窺い知ることができる大事な資料と思われる。
主な参考文献 |
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1) |
小川剣三郎 |
橘本流渡辺氏系譜、実眼14、291、実験眼科雑誌社、1931. |
2) |
小川剣三郎 |
橋本日本眼科年表、小川剣三郎写、1929. |
3) |
小川剣二郎 |
橋本日本眼科小史、73、吐鳳堂、 東京、1904. |
4) |
冨士川游 |
日本医学史、232、日新書院、 東京、1943. |
5) |
藤井尚久 |
日本著名医略伝( 稿本)、68. |
6) |
藤井尚久 |
本邦( 明治前) 著名医略伝、345、1957. |
7) |
福島義一 |
日本眼科全書. 1日本眼科史、79、 日本眼科学会編、 金原出版、 東京、1954. |
8) |
中泉行正 |
明治前日本眼科史. 4、274、 日本学士院編、 日本学術振興会、 東京、1964. |
9) |
武田科学振興財団 |
杏雨書屋蔵書目録、174、 臨川書店、 京都、1982. |
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図2 内障針の立様(『眼療雑記』所載)。家里流を相伝した記述か? 「針を立てる前、肉食をよくし、鷄か鶏卵を食すべし」とある。
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