49.四十八膜并五色闇目ロ伝抄
『闇目口伝抄』という本は伝説的存在と思われるほど過去のものとなったが、中川壺山輯『本朝医家古籍考』(昭和7年、新松堂刊)に「此書ハ明応8年ノ写本ナリ、眼科ノ書ナリ云々」とあり、
本書の成立は、田代三喜(導道、範翁、1465〜)が医方書を携えて逗留の中国(明)より帰った明応7年(1498)の翌年、即ち明応8年(1499)に遡り、馬島流眼科においては、その第8世了円法印の代に相当し、尾張馬島薬師寺の宗慈坊重常が大智坊と称され、眼医者として活躍していた。北野社、松梅院禅豫の日記、明応2年2月の条に、「馬島大智坊目薬二包被送申候」(副島種経氏資料)と記されているが、馬島大智坊の活動振りが窺える。
本書は本邦眼療書名中、最も古いものであろうといわれているが、その伝本すら極めて少なく、永禄13年観善写といわれるものの写本(岩波国書総目録収載)、永禄13年11月写と識される写本(千葉大眼科蔵)等の古写本が現在伝えられているにすぎない、ここに掲出のものは内題に「四十八膜并五色闇目ロ、風眼目薬」と書かれ、慶長20年(1615)の日付のある写本であるが、原著者、相伝者は何れも不明であり、後世における慶長本の写しと思われる。
この写本は35葉、全1冊(23.8×16.8cm)の和装本で、片仮名交りであるが本文は漢字体で書かれ、眼病図などは素描である。内容は前半19葉に「内外薬種以加減可療養○=コト」後半15葉には「薬種処方」について述べ、その前者には48種の眼病名それぞれに淡彩色の眼病絵図を描き、簡単な薬種療法、個々に眼病の病因をのべている。
例えば「ムシ目」の所ではその絵図の下段に
「伏心円○草煎可服毎服○(=三十)丸或五十丸モ時不定可呑、
右此眼従心臓発也、目包二而血可取如前爛目ノ竜脳散可入、九ノ指ヲ可灸、験二随而明珠散可入」
と、以下48種の眼病についてこの要領で記している。
キリマケ、 ウハク、アツウシ、 リンゲツ、 シウラン、アサシドミ、ランシツ、シンカ、糸膜、ケ膜、トミ膜、サシ膜、ヱンカ、ムシ目、
ツシ膜、 コウカ、 目バス、スヰマツ、 ウンカ、ハンカ、星目、 ヒメ熱、シントウ、ウキ膜、 フリ膜、熱膜、カンヒ目、サイ目、重膜、ハシ膜、トガリ膜、スチカイ膜、
リウン、シャキン、サセキ、ヲンカ、フチ膜、 シャウマウ、柱膜、 ツシメ、シメアシ膜、スメ、肖目、男女スギタル目、青、黄、白、赤、黒(内障)、カウサン、
しかし、 これらの眼病中、 リウン、 シヤキン、 サセキ、 ヲンカ、 シャウマウ、柱膜、 フチ膜、 ツシメ、シメ、アシ膜、スメ、肖目、男女スギタル目、青内障、黄内障
黒内障等には療法の説明はなく、 ただ「不治」と記され、白内障、赤内障は針にて治り、青内障、赤内障は灸にても治る、 としている。
本書の後半には主に薬物の処方と調合の仕方について述べられている、その薬名の主なものは以下の通りである。
竜脳散、辰砂散、紅梅散、明珠散、金集散瀉肝湯(洗薬)、千金方(内薬)、明眼地黄円、○(=月+早)賢円、肺息円、和骨南、神氣円、種微円、種微湯、五香円、光明眼目円。
"まけ"とは"まく"の転訛したもので、その"まく"すなわち膜は視膽を妨げるもの、すなわち視力障害を意味し、その膜の病に四十八あるといい、多くは充血、潰瘍、新生血管等の形の異なるにより命名されるものであるが、他の症候をとって命名したものもある(小川剣三郎著、『稿本日本眼科小史』)。本書には「右ハ外障ノ上品也、総シテ外障ハ四十八膜上ニテノ○(=コト)也、五色ノ内障ハ此外也、命○門ハ従腎発り、骨ノ煩也、内障ハ難治也、黒目ノ瞳子ノ上二内(肉)ノ生出タル目也、三年至七年、但シ始メカタツムリノ角ノ様成ル者云テ眼痛ム也、次第二金槌ノ先ノ様ニナリ、次第ニ目ノ内皆白ク成テ治スル○=コト無キ也、是ヲバ従初不可療治也」とあり、五色の内障眼は四十八膜の内に数えられているが治らない難病として別扱いに考えられていたようである。内障に五種を挙げることは馬島流眼科の初期と同様であるが、馬島流ではそれは後に黄、青、赤、白、黒、血、石内障等七種を分類している。また、本書に述べられている四十八膜の病因は肝、肺、心、牌および腎等五臓が原因であるといい、
所謂五輪八廓説が引用され、本書は中国(元、明代)伝来の医説にもとづく眼科であることが窺える。かかる点においては本書も馬島流眼科秘伝書と同系統と看倣すことができるけれどもその確たる証左はない。ただこの写本の末葉に
「此一巻者馬島(流)之秘(伝)眼科之奥意而不許他伝誠唯授一人之法也、慎而莫怠矣。
尾州馬島 妙眼院法印
記○(キョウ=力が3つ)祖門 恵 花押
曲空 花押
右秘蜜書伝受之趣次第 伝無用」
という識があり、後世における馬島流門人の単なる附加であるものか、本書とのかかわりは詳かでない。この様に本書はわが国の眼療書名の第一書といわれ、その伝えられる内容は48種の眼病、四十八膜の薬種療法が述べられたものであるが、その治療範囲は外障眼が主で、内障眼の治療には未だ及ばなかったようである。
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主な参考文献 |
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小川剣三郎: |
闇目口伝抄.実眼、10:554、1927 |
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小川剣三郎: |
実眼、 14: 62、 1931. |
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小川剣三郎: |
稿本日本眼科小史、.61、吐鳳堂、東京、1904 |
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小川剣三郎: |
稿本日本眼科年表 1929 |
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福島 義一: |
日本眼科全書 1 日本眼科史.88、 金原出版、東京、1954. |
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中川 壺山: |
本朝医家古籍考8〜9. 新松堂、東京、1932. |
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中泉 行正: |
明治前日本医学史 4、 日本眼科史. 262、 日本学土院編、 日本学術振興会、1964 |
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図3 図1同書。内障の治、不治。
「内障は難治なり、初めより療治すべからず」とある。
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