2014年春の展示会は第34回国際眼科学会(World Ophthalmology Congress:WOC)にあわせて行うことになりました。

研医会図書館所蔵の本で眼科の歴史をご覧ください。 2014年4月1日~7日 於: 研医会図書館(銀座)

 

このイベントは終了いたしました。ご来館ありがとうございました。
 展示会 「本でたどる眼科の歴史」   

例年は文部科学省の科学技術週間にあわせて本の展示会を行っておりますが、 今年は第34回国際眼科学会に合わせ、眼科学の本を展示いたしました。 リストはこちら

 起源はインドの龍樹菩薩の眼科治療にあるといわれる『眼科龍木論』や、平安時代から行われてきた眼科手術の秘伝書、隋唐時代から伝わる眼科薬方についての古書や江戸期に西洋医学が入ってからの眼科書などをご覧ください。

日程:
4月1日(火)~4月7日(月)   この週は木・土・日曜日も開館します。
 
開催時間:
9:00~17:00
開催場所:
中央区銀座 5-3-8 財団法人研医会図書館
交通:
東京メトロ銀座駅 徒歩5分 ソニー通り
対象:
小学生以上
入場料:
無料   (眼科診療所受付よりお入りください)
主催:
財団法人 研医会
問い合わせ先:
研医会図書館  e-mail: [email protected]


図書館ご利用の方は電話にてご予約ください。 03-3571-0194(代表) 

 

 

  2014年  「本でたどる眼科の歴史 展示本のリスト

書名
著者・編者
備考
1
銀海精微 孫思バク・撰 唐・貞観10 636 寛文8(1668)年版
2
聖済総録 眼目門   宋・政和年間 1111-1118 写本
3
医書大全     1528  
4
玉機微義   明・正統5 1440 明・嘉靖9(1530)
5
眼科竜木論 葆光道人 明・万暦3 1575  
6
証治準縄     1602  
7
麻嶋灌頂小鏡之巻   慶長12 1607  
8
真嶋流眼病之書   慶長15 1610 写本
9
白耆国公禅流眼目秘伝之書   慶長18 1613  
10
辞俗功聖方     1613  
11
医方大成論     1616-1626  
12
傳氏眼科審視瑶函(眼科大全) 傳仁宇 (允科)・簒輯 明・崇禎17 1644 明末清初刊
13
授蒙聖功方     1647  
14
啓迪集        
15
原機啓微 侃維徳・著 薛己・校 承応3 1654  
16
医方問餘 名古屋玄医 延宝7 1679  
17
馬淵流目伝書 従学翁 延宝9 1681 相伝
18
秘伝眼科全書 哀学淵・輯  貞享5 1688  
19
眼科医療手引草 藤井見隆・簒輯 享保11 1726  
20
大阪三井元襦眼目外障内障方函 三井良之・善之      
21
眼科精義(柚木流) 柚木太淳・講義 加門隆徳・撰  

~1803

 

 
22 眼目暁解 根来東叔・述 文化2 1805  
23 白内翳治術集論 附 穿瞳術論集 ハン・オンセノールト     原著1818
24 施里烏私眼科書 セリウス   原著1823  
25 古今精選眼科方筌 中目道珣 嘉永3 1850  
26 獺祭録 土生玄碩・述   ~1854  
27 鵬氏新精眼科全書 ボードウィン   1867跋  
28 布列私解剖図譜 フレス    1872  
29 歇氏眼科学 ヘーシング    1886  
30 フックス氏眼科全書

エルンスト・フックス

  1893  

 

1.銀海精微          唐 貞観10年(636) 孫思バク 原輯?   図1  図2  図3  リストへ戻る  


我が国で眼科専門書の翻刻が行われるようになったのは江戸時代に入ってからのことで、小川剣三郎博士の眼科年表によると寛永18年(1641)に『銀海精微』の翻刻が行われている。本書の著者については、その序に「銀海精微二巻未知何人氏所撰著…」とあり、明末清初版の1本によると「唐、孫思逸原輯」とあり、 また、衰学淵輯『秘伝眼科全書』(1688年刊)には「田仁斉が銀海精微、論」とあって明確ではない。内容はいわゆる中国古典眼科の神髄をなす五輪八廓説に基いた眼病治療方法を述べたものであるが、 この五輪八廓線論は熊宗立の『新編名方類證医書大全』の眼目門や衰学淵の『秘伝眼科全書』に全く同文で所載されている処からみると、本書の五輪八廓總論が基になったものと考えられる。

 

 

2.聖済総録         原著 宋 政和年間(1111-1118) リストへ戻る

 
『聖済総録』200巻(1111‐1118)は、北宋第8代皇帝徽宗の勅によって成った医書である。徽宗は自らを「道君皇帝」と称し、熱心に道教を信仰したが、この道教においては養生長生ということが中心的テーマでもあることから、健康や医療に関する事業には熱心だったようで、『聖済総録』編纂もそうした事業のひとつといえる。靖康の乱(1126)の折、金軍に攻め入られて都城・開封は陥落、翌年には徽宗と欽宗は捕らえられてしまうが、その時、宮廷の宝物や家具などと共に『聖済総録』の版木までも持ち去られてしまう。そのため、南宋においてはこの本は知られることなく金元でのみ刊行される。臨済宗禅僧、策彦周良に同行し明に渡った吉田宗桂(意庵・日華子)は、世宗嘉靖帝に謁し、その病を治した功績で元版の『聖済総録』200巻を賜った。『聖済総録』眼目門には「鉤割鍼鎌法」という鍼による目の治療についての記載があり、外科的治療が行われていたことが伺える。

 

 

 

3.医書大全        大永8年(1528) リストへ戻る  

  南北朝時代から室町時代にかけては医術を伝える本といえば秘伝書であり、世に広く医学の知識を普及させようとは考えられていなかったようである。しかしながら、堺の豪商・阿佐井野宗瑞(1473-1531)がこの慣例をやぶり、我が国初の医書刊行を行う。この大永8年(1528)版『医書大全』の他、阿佐井野家では『三体詩』『論語』(天文版)も刊行している。『医書大全』は明の熊宗立の編著で、我が国で2番目の医書刊行となった一乗谷朝倉氏による『俗解八十一難経』もまた、熊宗立の著書であるし、同じく一乗谷から出土した『湯液本草』焼片もまた熊宗立の刊本の写しであった。『医書大全』の初巻は序文、次には熊均の『医学源流』、その後に『医書大全』24巻がおかれる。岡本爲竹一抱子撰、『医方大成論和語鈔』(元禄15)の解説によると『医書大全』は元代の孫允賢の『医方集成』に遡り、再三の増補改名を経て成立したとされている。


 

4.玉機微義          図1  図2  図3   リストへ戻る

『玉機微義』は金・元医学の四大家(劉完素、張従正、 李東垣、朱丹渓)の学を伝える私撰の医学全書であるが、元末明初の医家、徐用誠の著『医学折衷』を劉純(明 陳西威寧の人、字=宗厚)が増添した治方の書であるともいえる。その編集は、疾病を分類し、病因を論じ、治法をのべ、それに用いる薬剤を挙げている。また、その所説は中国古代の医書『内経』から宋、金、元代に至る諸書の医説であり、眼科においても目と五臓六腑との関係、五輪八廓説を基本に述べられている。展示の『玉機微義』は、外題箋下部および眉上位に道三自筆の"遂次詳閲"という書き入れがあり、巻末に「右全部五十巻以他板印本具遂参伍於弁異別治聖教賢規之処加愚筆導斎下後学者之 天正第二甲戊年自七月二日至八月三日洛下雖知苫戸蓋静翁道三(花押印)」という道三自筆の書き入れと蓋静翁花押および押印が認められるものである。

 

 

5.眼科竜木論         図1  図2  図3   リストへ戻る

『眼科龍木論』は『秘伝眼科龍木医書總論』 10巻と『保光道人秘伝眼科龍木論』 首巻1巻(全4冊)よりなる。中国で最も古い眼科専門書と考えられ「800年伝えられてきた書物ではあるが、内容に誤字脱簡も多いからよく確めて治療の助けとせよ」と評される書物である。明版あるいは明末清初版の他、多数の写本が伝えられ、その広く用いられたことが窺える。多くの刊本・写本があるため、その題名も『秘伝眼科龍木医書總論』『秘伝眼科医書總論』『秘伝眼科龍木医書 (保光道人秘伝眼科)』『秘伝眼科龍木論』『秘伝眼科龍木總論』などさまざまある。富士川游博士が「我邦ノ中古ノ眼科ハ純然タル唐宋ノ眼科若クハ之ヲ用フルニ方リテ少シク取捨刪削ヲ加ヘタル唐宋眼科二外ナラザルナリ」と述べているように原型は唐宋時代の眼科で、さらに遡ればインド眼科であったため、龍樹菩薩の著した眼科ということでこの書名がつけられている。

 

6.証治準縄          リストへ戻る

王肯堂(1549-1613)輯 万暦30年(1602)自序

『証治準縄』は『六科準縄』とも称せられているように「証治準縄」「傷寒証治準縄」「幼科証治準縄」「女科証治準縄」「瘍科証治準縄」「雑病証治類方」の六種の医書より成る私撰の医学全書である。「証治準縄」竅門(上下)には眼目の項目があり、五輪八廓説に基づく眼疾病証が精細に述べられている。この内容は、江戸時代中期の古方家、名古屋玄医(京都の人、字は閲甫、富潤、丹水子、宜春庵、桐漢と号す、1628~1696)の著した『医方問餘』の眼目門にほとんどそのまま引用されている。またこの中の「視赤如白證」は世界最初の色覚異常についての記述だとして1943年、千葉大学伊東弥恵治博士が取り上げられている。王肯堂が自序で、明以前の多くの医書を参考にまとめたと述べたとおり、眼目の部も樓英の『医学綱目』の記述と似通っている。唐宋の医学を集大成して、諸家の説や治方を集録、編者自身の治験等も加えて総合的に纏めている点で高く評価される医書である。


 


7.麻嶋灌頂小鏡之巻     図1  図2  図3  図4   リストへ戻る  解説(研医会通信)

馬嶋流眼科は室町から江戸時代にかけて最も名声を勝ち得た眼科流派であるが、その起りは延文2年(1357)に医王山薬師寺(寛永9年明眼院の名称を賜る)が馬嶋清眼僧都(?-1379)によって再興され、その清眼僧都が祈祷や祈願とともに眼病治療を始めたことからと伝えられている。小川剣三郎編『稿本日本眼科年表』 によると朱雀天皇天慶元年(938)の条に「尾張国馬嶋薬師寺の宗慈坊(後に大智坊と改む)天慶の頃より眼科を創む」とあり、平安朝時代から眼の療治らしいことが始められていたとも考えられるので、その歴史は古い。馬嶋流を伝える写本には幾通りもの本があり、馬嶋の「ま」も馬、麻、摩、間、真、満のようにさまざまな字が使われる。しかし、その内容は五輪八廓説に基づく疾病理論、 五輪所属図、薬種、その功能および用い方、眼目養性之次第(眼病図入)、七種の内障(そこひ)絵図などで、ほぼ同様である。秘伝とされるだけに、刊本はない。

 

 

8. 真嶋流眼病之書   慶長15年(1610)        リストへ戻る

        

 馬嶋流眼科の“馬嶋"という名称には真嶋、麻嶋、間嶋等いろいろな文字が当てられる。本書識語には、この一巻は高田左衛門大夫が相伝の書で、尾州真嶋流の秘伝書であると記される。相伝の由来に「神武天皇の御代、丹波の国、高田左衛門大夫、和気の典薬吉之といへし人」が薬師如来の夢をみて伝えたものであると述べられているが、神武やら和気典薬やらと、権威づけのための言葉で飾られており信憑性は薄く感じられる。薬物について、本書では、和国の薬として「はくちやうこう、ぼれい、けつめいし、くずの粉、明石、とんしや、せう石」等、本薬には「龍脳、 しやうのう、かん水石、 しんしや、ゑんせう ほうしや、白ばん、石かう、 光みやうたん、たん、りうたん、けつせき、しやこう、せきこう、かいし、しやこつ」等を挙げている。薬品はやはり中国からの輸入品が多かったのだろうか、「本薬」という呼び名自体、中国が本物である、という意識を示している。

 

 

9.  白嗜国公禅流眼目秘博之書            慶長18年(1613)    リストへ戻る

 この本の前書きによると「天正の年に大明より航至て光明と云うもの来れり、即ち上行院行幸なるとて右之薬を伝う也、上行院より前島主膳正秀正草庵相伝す、孝道感應則雖後代明盲目せんこと必矣。慶長18年」とあり、天正年間に明国からの渡航者によって伝えられたことが窺われる。白嗜国(山陰道八カ国の一、現鳥取県米子、倉吉市地方)に伝えられた流派であるが、一方に『南轡楚呂玉伝眼目秘術』という写本があり、その本にも「前島主膳正秀正」が南蛮国楚呂玉の眼科を相伝したということが書かれている。公禅流も南蛮流もともに慶長年代の相伝であり、この両者には何か共通点があるのではなかろうか。公禅流の公禅を楚の国の光善というものあり、とする光善の伝としてそれからとって受伝者が日本流に公禅と漢字をあてはめたものかもしれないが不明確である。




 

 

10.辞俗功聖方     リストへ戻る

 初代の曲直瀬道三には多数の著書があり、集大成の医書ともいうべき『察証弁治啓迪集』(1574) が著される以前にも『辞俗功聖方』『授蒙聖功方』等が出されている。この両書はともに初代道三の作となっているが、その著作年代は推定安土桃山時代となっていて、明確な成立年はわからない。両書とも、よく似た内容となっているが、「痢病」が「利病」になっている他、『辞俗功聖方』にあった「消渇」が『授蒙聖功方』にはなくなり、また、癰瘡もなくなっている。その代り『授蒙功聖方』の目次には癰風が設けられている。道三の医学はこの時代にあって公開性が高く、それ以前の田代三喜らの秘伝を守る方法とは異なる態度であり、しかも初学者から高度な医家向けへとさまざまな医書を書いている。『衆方規矩』『出証配剤』『遐齢小児方』『鍼灸集要』『薬性能毒』『宜禁本草』『養生誹諧』『黄素妙論』など、江戸時代に入ってからも道三の書は繰り返し出版、書写されている。

 


 

11.医方大成論     寛永3年(1626)     リストへ戻る


岡本為竹(一抱子)撰、『医方大成論和語抄』の「南北経験医方大成発端之弁」は『医方大成論』の成立について、次のように語る。元代、孫允賢が陳無澤の『三因方』厳用和の『済生方』を主とした医書より善良の方法を選び出し、さらにそこから験あるものを集めて一部十巻の書として『南北経験医方集成』を為した。その後、明の彦明公が先の書に劉河間の『医方精要』『宣明論』、宝仙老人の『抜萃方』等を以て附録増益し、名を改めて『南北経験医方大成』とした。さらに明の洪武年中に彦明公の子孫にあたる熊宗立が増益して『医書大全』24巻とした。岡本一抱は「吾朝において『医書大全』の病論のみを抜き集めてこの如く一書と成すことは何れの代の何人の致したること知れ難し。あるいはいわく故道三作なりと詳らかならず。」と述べているが、誰が再編したのかは不明である。岩治勇一氏は吉田意安や谷野一栢の名を挙げているが、月舟幻雲や一乗谷との関連を考えると一栢の可能性は高いと思われる。

12.審視瑶函(眼科大全)   図1  図2  図3  リストへ戻る 

中国では元の代に至ってインドとの交流が盛んとなり、 佛教とともにインドの眼科が中国に入り、明代にその最盛期を迎え、『龍樹菩薩眼論』『眼科竜木論』『銀海精微』『眼科全書』『眼科百効全書』『原機啓微附録』『明目良方』『明目神験方』等眼科の専門書が次々と著わされた。ここに採りあげた『審視瑶函』も明代に著わされた眼科専門書の一つである。『審視瑶函』は『傳氏眼科審視瑶函』あるいは『眼科大全』といわれ、傳仁字(字は允科、明末の人、眼科専家)が編集した眼科専門書である。初め傳仁字が編集したものをその子、傳国棟らが軒岐に始まり、李東垣、朱丹渓、張従正、劉河間の金元医家に至るまでの諸書およびインド医書の訳本を広く参考して改訂増補し、『審視瑶函』の書名をつけて発刊したものだろうといわれている。(小川剣三郎博士)『證治準縄』からの引用が多いことも知られている。

 

 

13.授蒙聖功方           (1647)     リストへ戻る

曲直瀬道三(号を、天正2年以前は雖知苦斎、蓋静翁、 寧固。天正2年正親町天皇から“翠竹"の2字を賜り、“雖知苦"を“翠竹"と改める。道三には『辞俗功聖方』という著作があり、内容は『授蒙聖功方』とよく似ている。『辞俗功聖方』には刊本がないため、これが先に著わされ、 それを改題したものが古活字版始め、数種の整版、写本のある『授家聖功方』であろうかという説が出されている。道三は医学の修得の階梯を定め、1『美濃医書』(『捷径弁治集』とも)、『脈書』 2 『十五指南篇』、『仮名本全九集』、『授蒙聖功方』 3『真名本全九集』、『本草能毒』 4『医灯藍墨』、『宜禁本草』 5『雲陣夜話』、『可有録』、『鍼灸経』 6『茶話』、『山居四要抜萃』、『炮炙論』、『鍼灸禁穴解』 7『三家流』、『三国医源』、『鍼治聖伝』 8『大徳済陰秘訣』、『雞旦祝酒三薬式』 9『啓迪集』 とした。これによれば『授蒙聖功方』は第2段階の本であり、初学者向けの医書と考えられる。

 

 

14.啓迪集       曲直瀬道三:著   天正2年:序      リストへ戻る

 
正式名称は『察証弁治啓迪集』という。天正2年(1574)に正親町天皇に献じられ、天皇の命で策彦周良が序文を書いた。成立は溯る元亀2年(1571)であるが、刊本として世に出たのはさらに後の徳川の世となった慶安2年(1649)である。巻頭には策彦周良の序と道三自序があり、『養生主論』を引いて「岐黄の問答は医の法なり。臨機応変は医の意なり。」と、変化していく症状を的確に見極めて対応する大切さを述べているようだ。序の次には「啓迪集辨引」があるが、この部分を見ると文章を論理的に分解して分かち書きしており、対照的なものを左右に並べ、どの部分を弁別すればよいのかを明示しようとしている。こうした論理の明示は金元医学の中でも行われ、道三がその流れを汲んでいるということがわかる。病門別にたてられた構成の中には朱丹渓、李東垣、劉完素らの引用がなされており、全8冊の大部の書である。

 

 

15.原機啓微          図1  図2  図3    リストへ戻る

中国 (明、清代)で行われた眼科専門書の中、わが国に輸入され、翻刻されたものに『銀海精微』『眼科全書』等何種類かあるが、『原機啓微』もその一つである。その上巻には眼疾の原因および治法を論じ、下巻は用薬の理、附方を、また附録には各証を論じ、附方に方剤、治法を述べている。『歴代名医略伝』(吉田意安撰、寛永10年刊)によれば「侃維徳…、字ハ仲賢、敷山卜号シ、三呉ノ名儒医也、… …医説及原機啓微ヲ著ス……」とあり、また、丹波元胤編『中国医籍考』によれば『原機啓微』に洪武3年(1370)侃維徳の序が記されていることから、本書は明代の初め侃維徳に係る書であることがうかがえる。『銀海精微』に次いで翻刻された中国古典眼科専門書であり、簡潔にして條理のある眼科書として、17世紀初めの日本眼科に広く行われたものと思われる。

 

 


16.医方問餘    (1679)       リストへ戻る

 著者の名古屋玄医(1628-1696)は幼い頃から身体が弱く、40代で運動麻痺になったと伝えられる。しかし、その研究意欲は旺盛で、医師としても活動を続けた。喩嘉言や薛己に啓発され、李東垣、朱丹渓の考え方一辺倒で行く危険を説いた。『医学愚得』『丹水子』『丹水家訓』など多数の著書を著し、その考え方の線上には張仲景の医学があったため、古方を再評価したという。『内経』『難経』『諸病源候論』『傷寒論』『金匱要略』の諸書を一貫した医書として把握しようと努め、張景岳・程応旄の学説の影響下に衛気の虚を助けることを病気の本治法として、そのあとで残った病状に対し虚実を考慮して、標治することを説いた。玄医は後の後藤艮山(1659-1733)、山脇東洋(1705-1762)、吉益東洞(1702-1773)ら、いわゆる古方派の先駆けとされているが、後藤艮山の弟子入りを断ったことが伝えられている。

 


17.馬淵流目伝書        リストへ戻る

 この写本は延宝9年(1681)1月24日、従学翁の伝えとして書写相伝されたものである。全1冊横長本、およそ60丁よりなり、その前半42丁に馬渕流を掲げ、後半18丁には望月流の眼目書を載せている。前半42丁には馬渕流の日々の治療についての要領を備忘録的に記述した「目之薬一流」と眼疾の治療法、洗薬、指薬等について述べる「眼目捷経切紙」(巻1~ 9) がある。内障針術を行ったこの流派では「目醫療具」の項に「長サ三寸ノ針ニツ、血ヨリ(カミヨリ)一ツ、毛ヌキーツ、捻針ニツ、銅皿一ツ、銅張一ツ、薬皿一ツ、天目大小三ツ、鴨羽析ノ枝紙ヨリ」等が挙げられている。烙法には熱金(アツガネ)、温金(ヌルガネ)等が用いられた。流派独自のものはなく、他流派の要点をまとめて馬淵流の秘伝とした書といえる。

 

 

18.秘伝眼科全書    貞享5年(1688)翻刻   図1  図2  図3   リストへ戻る 

 本書は翻刻以来およそ1世紀以上にわたり、 日本の眼科諸流派の最良の教科書となったともいえる書である。それは、かの土生玄碩(1762~1848)が本書を学び評していることからも容易に窺い知ることができる。眼科の五輪八廓説によって、眼球内部に病因のある疾患24症と、外眼部に病因のある疾患48症を詩歌詠式により説いているのが特徴となっている。この貞享版は、哀学淵(武夷の人、晴峰と号す)輯著 楊春栄繍梓となっていて、その跛によると青木芳庵(竹雨斉青木東庵の同族、眼療に精しく法橋に叙せられ、御医となる)によって和点が施されたことが窺える。また、本書の広告欄に「この本は眼目の病論、治法、得効の薬名等悉く備れる眼療の秘本なり」とあるように、当時日本で翻刻された中国眼科専門書としては最も流行ったものであった。
 

 

19.眼科医療手引草      リストへ戻る  解説(研医会通信)

 元禄2年(1689)日本で初の眼科書『眼目明鑑』が刊行された。その19年後の享保11年(1726)、藤井見隆 纂輯、長岡恭斎 校正で『眼目精要』『医療羅合』が同時刊行された。その後、 その内容を変えずに、一部文字の入替を行って出版されたものがこの『眼科医療手引草』である。本書の刊行は、書写による秘伝書形式から刊本化を促し、従来の眼科諸流派の秘方主義を打破する糸口となった。『眼目精要』と『眼科医療手引草』との関係については昭和5年(1930)に小川剣二郎博士が中外医事新報(No.1166 P.571)に詳細な研究発表をされている。総合治療全書ともいえる『医療羅合』のいろは順分類には"めの部"も挙げられているにもかかわらず、何故眼目と小児の部門のみを独立させたのかは不明だが、この部門を藤井見隆がより重視したものとも考えられる。

       



 

20.大阪三井元襦眼目外障内障方函    図1  図2  図3   リストへ戻る

  
三井家の始祖は藤原氏の出で、その何代か後の子孫が讃岐象頭山大麻山附近に住みつき、さらに代を経た新兵衛重行(元和6年~元禄11年)が三井家眼科初代といわれる。三井善庵(重之)の大阪進出以後大阪三井流眼科としてその後系に良之(眉山)、善之(棗洲)らが相次いで現れ、その名を高めた。三井家に伝わる眼科は曽て新兵衛重行が尾州清岸寺の住僧雪渓和尚から伝授されたといわれることから、あるいは馬嶋流と同系の眼科流儀であったと思われるが、白内障の療術は馬嶋流の直鍼方と異なり、手術施行の際、瞳孔を傷つけないように刀を眼球の側方から入れ、それを一下して水晶体をそのままの形で墜下する横鍼術であったといわれ、横鍼術はやはり三井新兵衛が雪渓和尚から伝授された流儀をもとに元禄年間に考案した家伝の秘術であろう(呉秀三)といわれる。

 

 

21.眼科精義(柚木流)      リストへ戻る  解説(研医会通信)


柚木太淳(字 仲素 号 鶴橋 京都の眼科医 ~1803)・講義 加門隆徳・撰        
柚木太淳は寛政9年(1797)官に請願し、許を得て、 その10月に一刑屍を解剖し『眼科精義』『解体瑣言』(寛政11年刊)等を著わした。柚木太淳の眼科は、門人加門隆徳がその学んだ内容を撰述、門下倉内直によって筆記された『柚木流眼科書』にまとめられている。柚木流眼科書の写本は化政年代以後大変多くの異本が見受けられるが、それはこの書がそれまでの秘伝書と異なり、眼病の分類を解剖的分類法を加味して行っていること、眼球を解剖してその構造を研究し実験臨写の諸図を示していること、あるいは白内障手術について詳述し、その器具もかなり改良された多くの種類が掲げられていたからだと思われる。本書に人体解剖知識が多く盛り込まれた理由には柚木太淳が、眼病が全身病に関係あることに注目したことがあるといわれている。

 

22.眼目暁解          図1  図2  図3   リストへ戻る


根来東叔(京都の眼科医)は1732年人骨を観察して写生し、それに説明を加えて『人身連骨真形図』(1741)と題する一書を作った。ついで『眼目暁解』(1742)を著わしたが、この書には眼球内景図が載せられた。東叔は自らの経験から、白内障は眼球中央部の病であると、その部位の解剖学的位置づけをしているといわれる。今日のような眼球図に比ベることはできないが、この時代、次第に眼球内部の解明が進みつつあった。これは根来東叔の創見であったといわれている(小川剣二郎)。根来流関連では、『根来流眼目秘方』もあるが、その中には『眼目暁解』にあるような根来流の由来については語られていない。根来寺から伝えられた眼科をもって後世紀州から大阪、京都に進出した根来家により受継がれた根来流眼科が、東叔の代に至って近世諸家の秘要を加えて大成した秘伝書と考えられる。

 

 

 

23.白内翳治術集論       ハン・オンセノールト(Anton Gerhard van Onsenoort   原著1818)  リストへ戻る


我が国では、白内障に対しての医術として、『医心方』(984年) 第5巻に「治目清盲方」の項目があり、隋・唐から伝わる揆下法、墜下法、裁開法、破壊法などが「針たて」と呼ばれ行われてきた。原著者はウトレヒトの人、オランダの医官ハン・オンセノールトで、河本重次郎によれば、この論文は彼の卒業論文で、1814年にアムステルダムで出版され、当時有名な一書であったという。また、著者は外科および眼科の雑誌“Nederlandsh Lancet”を発行したことでも有名な人物である。訳者については緒方洪庵説、不詳説などあり、不明。19世紀初めのオランダの眼科における白内験手術の諸家方術を集めて論述しており、当時のオランダ眼科を窺うことのできる幕末の翻訳眼科書の一つである。手術器具の図もあり、我が国の西洋医学導入の頃の様子がしのばれる。

 

 

 

 

24.施里烏私眼科書                           (原著1823)     リストへ戻る

 セリウス(Maximilliam Joseph von Chelius 1794~1876) は、19世紀前半ドイツ外科学界の中心的人物で、その『外科書』は8版を重ね、11か国語に翻訳されて広まったという。眼科学にも大変長じていて、その著“Handbuch der Augenheikunde ”(2巻)が1839~44年にシュトゥットガルトで出された。我が国では織田( 伊東) 貫斎、佐藤舜海、 藤田珪甫ら長崎留学経験者によって翻訳された。その前輯(第1篇より第4篇まで)は佐藤泰然(1804~1872)訳定『施里鳥斯眼科全書』と名付けられ、その後輯(第5篇より第8篇まで)は藤田珪甫未定重訳とされる。養嗣子である舜海が訳したものを父の泰然の名で出したということなのだろうか? 「セリウス」の訳語(当て字)には設里鳥私、施里鳥私、施里鳥斯、設里宇私、設劉私、舎利鳥私等々あつて一様でない。

 

 

25.古今精選眼科方筌  中目道珣(名-詰、号-樗山 1808~1854)著   図1  図2  図3   リストへ戻る     


中目道珣は文化5年、仙台藩医の次男に生れたが早くより眼科を志し、17歳の頃家をでて各地の眼科名家を訪ね教えを乞うたと伝えられる。江戸に土生玄碩・玄昌、徳島に高錦国、大阪に高良斉、武蔵に本庄普―、尾張に馬嶋円如、筑前に田原養柏、信州に竹内新八郎、三河には竹内玄洞等が眼科名家としてきこえており、道珣はこうした大家を訪れて、白内障手術の腕をみがくことに努めたという。『古今精選眼科方笙』の他『古今精選目病真論』『眼科摘要』『眼科療治雑話』『中目本草』『眼科錦嚢正誤』『眼科真宝』の著書がある。『古今精選眼科方笙』は薬剤について、『古今精選目病真論』は手術療法について記述されたもので、いわゆる漢蘭折衷眼科に類する。修業中、白内障鍼術を窮めようとしばしば魚眼を実験台にしていたが、遂にある日機会を得て手術に成功したという逸話が伝わっている。

 

 

 

26.獺祭録    土生玄碩 口授    図1  図2    図3(別の写本)  リストへ戻る 


獺祭とは、獺(カワウソ)が魚を並べること、転じて多くの書籍をひろげちらすことという。土生流眼科は足利時代の昔から秘伝書により代々受け継がれて玄碩に及んだものと思われるが、玄碩以前の眼科についてはその資料も乏しく明らかではない。西洋流実験的眼科医の始祖といわれる土生玄碩の事蹟については多くの研究があるが、この『獺祭録』や門人時岡玄岱が補足したという『銀海波抄』、『師談録』等によってその学説や手法を窺い知ることができる。本書には載せられていない秘伝の手術法として開瞳法(仮瞳孔術)と直針法、横針法による白内障手術があった。開瞳法は横針法による手術を行った折、白翳は墜ちずそのままで虹彩の結膜に近いところに小さい孔があいたために復明した事例から発明された方法だという。この発明を機に玄碩の手術室には「迎翠」という扁額が掲げられたと伝えられている。

 

 

27.鵬氏新精眼科全書 ボードウィン口述(1867)山本良哉 筆記      リストへ戻る

 幕末、著者のボードウィンは長崎精得館(長崎大学医学部前身)や大阪府医学校(大阪大学医学部前身)その他の医育機関で教鞭を執り、生理学、眼科学を初め数科目を教え、患者の治療も行い、その門人や、患者数も多数にのぼったといわれる。この『鵬氏新精眼科全書』は、慶應元年(1865)福井藩より長崎精得館に留学し、蘭医ボードウィンに師事して、内外科、薬剤学および眼科学を修めた山本良哉(匡輔)によるボードウィンの眼科学講義の筆記である。日々の口授筆記を夜、惣官や学監の筆記と照合して誤りを質した、とあり、その熱心な姿勢が伺われる。ボードウィンの眼科治療はトラホーム治療、斜視眼手術、眼瞼成形術などの他:ヘルムホルツ検眼鏡、アトロピン、硝酸銀などの応用によってその技術に精密さを加えており、当時他に類のない斬新な一書とされていたドンデルス(Donders)の生理学や1845年当時のRucteの眼科書の影響を受けたものであるとみることができる。

 

 

28.布列私解剖図譜                    (1872)      リストへ戻る

 『布列私解剖図譜』はフレスの解剖書 (J.A.Fles: Handleiding Aot de stelselmatige beschrijvende ontleedkunde van den Mensch.Utrecht,1866)を大阪鎮臺病院医員の中欽哉(定勝)が訳述した翻訳書といわれている(小川鼎三)。1866年に発行されたフレスの蘭書(原本はドイツ?)が6~7年を経て1872年に翻訳されたものである。訳述者の中欽哉は、石州の医家の生まれ。緒方洪庵の適塾に安政3年(1856)に入門、維新後大阪鎮臺病院の医員となり、また医学校の創立にも参与して功労があり、病院医官、次いで陸軍軍医となった人物である。さらには大阪で医業を開いたが転じて判事となり、再転して実業家となった。激変する世を生き抜いたという観のある人生である。『把而身湮(パルヘイン)解剖図』(文政5年)を作った中環と中伊三郎の孫にあたり、当分野で実績のある中家を継いだ。当時としては最高水準の線刻銅版技術によって原図の質が見事に復元されている。

 

 

29.歇氏眼科学      ヘーシング眼科学   (1886)      リストへ戻る

 

ヘーシング氏(F.Hersing)著の“Compendium der Augenheil Kunde”を甲野 氏が訳したものである。この眼科書は明治10年前後に東京大学医学部で行われたシュルツェ氏(Wilhelm schultze)の講義の台本であったといわれている。内容を26章に分けているが、他の眼科書と異なっている点は目次に各章をさらに細分化して疾病項目を列挙する。明治10年代、次々と泰西諸大家の書が翻訳・纂著される中でも初期のもので、19世紀後半の西欧眼科をわが国へ導入する主力をなした翻訳眼科書のひとつ。訳者、甲野氏は安政2年生れで、明治6年(1873)、第一大学区医学校入学、同14年に東京大学全科を卒業。同16年同大学助教授となり、眼科主任教授スクリバ氏(Julius Scriba、1849~1905)、眼科教授梅錦之丞氏(1858~1886)等を補助した。本書の出版は明治19年(1886)であるが、その訳出は甲野氏が助教授になった明治16年から同18年にかけてのことと推測される。

 

 

30.フックス氏眼科全書      エルンスト・フックス    (1893)       リストへ戻る

 本書はオーストリアのウィーン大学眼科教授、エルンスト・フックス博士(Dr.Ernst Fuchs (1851-1930)が著した眼科学講本(Lehrbuch der Augenheilkunde)の第3版(1893)を井上達七郎、諸角芳三郎が共訳したもので、明治27年より翌28年にかけて朝香書店から発行された。フックスの名は早くより眼科医界に轟き、大正11年(1922) 9月、我が国へも訪れている。その所説は斬新で精確、図画は原著者が最も重視し、ことに顕微鏡標本の類はことごとく実験によって得られたもので、助手のザルツマン(Maximilian Salzmann)と彫刻家マトロニーとの協力によって成っているといわれ、欧州各国の医学者等において高く評価され、原著は英、佛、露、伊等各国語に訳された。『弗克斯氏眼科全書』は、全身病あるいは各臓器と眼病の関係を知るため、その疾病の名称を掲げて, これに起因する眼病を捜索するに便利な索引を設けるなどの点で、我が国でも好評を博した。