2015年春の展示会は江戸時代の名医たちの書物をご紹介いたします。

研医会図書館所蔵の本で江戸時代の医学の流れを俯瞰してください。 

2015年4月13日~17日 於: 研医会図書館(銀座)

        このイベントは終了いたしました。ご来館ありがとうございました。

 

 
 展示会 「江戸の名医と出会う」   

研医会図書館では文部科学省の科学技術週間にあわせて本の展示会を行っておりますが、
今年は江戸の名医たちの本を展示いたします。 

日程:
4月13日(月)~4月17日(金)   この週は木曜日も開館します。
 
開催時間:
9:00~17:00
開催場所:
中央区銀座 5-3-8 財団法人研医会図書館
交通:
東京メトロ銀座駅 徒歩5分 ソニー通り
対象:
小学生以上
入場料:
無料   (眼科診療所受付よりお入りください)
主催:
財団法人 研医会
問い合わせ先:
研医会図書館  e-mail: [email protected]

     中神琴渓『生生堂傷寒約言』

 

  図書館ご利用の方は電話にてご予約ください。 03-3571-0194(代表) 


 

2015年  江戸の名医と出会う 展示予定の本 リスト

 
書名
著者・編者
著者の生年-没年
1
田代三喜法印目伝之書 田代三喜 (1465-1537)
2
医的方 曲直瀬道三(初代) 翠竹院 (1507-1594)
3
徳本翁十九方 永田徳本 (1513?-1630?)
4
恵徳方 曲直瀬道三(2代)養安院 (1565-1611)
5
選鍼三要集 杉山和一 (1610-1694)
6
丹水子 名古屋玄医 (1628-1696)
7
大和本草 貝原益軒 (1630-1714)
8
本草綱目 稲生若水 (1655-1715)  
9
老人必要養草 香月牛山 (1656-1740)
10
校正 病因考 後藤艮山 (1659-1733)
11
用薬須知 松岡玄達 恕庵 (1668-1746)
12
医官玄稿 望月三英 (1680-1769)
13
一本堂行餘医言 香川修庵 (1683-1755)
14
普及類方 丹羽正伯 (1691-1756)
15
薬徴 吉益東洞 (1702-1773)  
16
山脇東洋方函並諸家秘方 山脇東洋 (1705-1762)
17
扁鵲傳割解 浅井図南 (1706-1782)
18
人參譜 田村藍水 (1718-1776)
19
古方薬説 小野蘭山 (1729-1810)
20
漫遊雑記 附嚢語 永富独嘯庵 (1732-1766)
21
戴曼公治痘秘中之真秘 池田瑞仙 (1734-1816)
22
梅花無盡蔵 荻野元凱 (1737-1806)
23
蕉窓雑話 和田東郭 (1742-1803)
24
生生堂傷寒約言 中神琴渓 (1744-1833)
25
傷寒論集成 山田図南 (1749-1787)
26
気血水三等薬徴 吉益南涯 (1750-1813)
27
傷寒啓微 片倉鶴陵 (1751-1822)
28
三喜直指篇 原南陽 (1752-1820)
29
素問識 多紀元簡 (1754-1810)
30
春林軒丸散方録 華岡青洲 (1760-1835)
31
医籍考 多紀元胤 (1789-1827)
32
薬治通義 多紀元堅 (1796-1857)
33
治瘟編 浅田宗伯 (1815-1898)
 

 

  1.田代三喜(1465-1537)    『田代三喜法印目伝之書』  図1図2図3図4図5 もどる
     著書・編著:  『当流大成捷径度印可集』 『和極上下』 『三喜直指篇』  
   生地は埼玉県の越生とも川越とも言われている。15歳で臨済宗妙心寺派の寺に入り、足利学校で医学を学んだ。その後、23歳で明に渡り、銭塘にて日本人医師の月湖に師事。34歳で帰国、師・月湖の著書『全九集』『済陰方』を日本に齎した。
 異説として、明に留学したのは導道という人物であり、月湖は道三が自らの流派を正当化するために作り出した架空の人物という考え方もある。遠藤次郎氏によれば、沢庵(たくあん)禅師は、彼の著書『医説』の中ではっきりと三喜と導道は別人であると述べており、中国に留学し、金元医学を持ち帰ったのは導道であって、田代三喜は明に渡っていないという。原南陽は父から引き継いだ『三喜直指編』を安永8年(1799)校訂し終えて、刊行している。この著は後人の仮託という説もある。
 

        

 

  2.曲直瀬道三(1507-1594)  『医的方』  図1図2図3 もどる 
 

著書 :  『啓迪集』 『薬性能毒』 『百腹図説』 『正心集』 『指南鍼灸集』 『弁証配剤医灯』

    幼少の頃、両親を失い、伯母に育てられる。永正13年(1516)京都相国寺に入り、学問を始める。関東に下り足利学校で学び、25歳で田代三喜の弟子となった。7年ほどの修行の後、京都に帰り、『啓迪集』を著し正親町天皇に献呈。当時の要人たちの診療にあたる。著作多数。仮託された本も多い。渡明の説もある。
学舎啓迪院を創設。将軍の後援もあったと思われる。養子である2代目・道三、曲直瀬玄朔の『医学天正記』を見ると天皇家の人々をはじめ、信長ら武将、灰屋紹益ら当時の財界人などの診察をした記録がある。道三は漢文で書かれた李朱医学の書を仮名交じり和文にしたり、一目瞭然の表式にしてわかりやすい本を書いた。これが曲直瀬流の医学として広まった。
 

                    

   

  3.永田 徳本(1513-1630)   『徳本十九方』  図1、  図2、  図3、  図4、  図5 もどる
  著書 :  『梅花無尽蔵』 『徳本翁十九方』  
   田代三喜、玉鼎らより李朱医学を学び、甲斐国主であった戦国大名武田信虎・信玄父子二代の侍医となった。武田滅亡後は信濃や関東東海など諸国を巡り、貧しい人々にも安価で医療活動を行ったといわれ、「甲斐の徳本」「十六文先生」「医聖」と称された。号は知足斎、乾室など。その考え方を示す本として『梅花無尽蔵』があるが、ここには曲直瀬道三の『授蒙聖功方』(天文15年成書)の眼目門と同様な文章の配列になっており、『甲斐流眼目之書』にも同様の眼科の記述がみられる。晩年は岡谷に住み、記録を信じれば享年は118歳という長寿であった。本草学にも造詣が深く、甲州の葡萄作りは徳本の力によるという説もある。  

 

  4.曲直瀬玄朔(1549-1631)   『恵徳方』 図1図2図3 もどる
  著書:  『常山方』 『延寿撮要』 『十五指南篇』 『恵徳方』 『医方明鑑』 『換骨秘録』 『切紙』 『済民記』           『新添脩治纂要』『大成和抄』  
   名は正紹。号は東井、延命院、延寿院。初代・曲直瀬道三は妹の子を養子とし、これを二代目・曲直瀬道三とした。正親町天皇、後陽成天皇、織田信長や豊臣秀吉とその周囲にいる人々の診療にあたり、その記録が『医学天正記』としてまとめられている。これは曲直瀬玄朔28歳のときから58歳までの30年間の診療録で、中国から伝わった李朱医学がどのように日本化していったかを読み取れるといわれる。文禄元年の朝鮮出兵にも従軍し、豊臣秀次の侍医も勤めたが、秀次の切腹で常陸に配流された。慶長13年には徳川秀忠に呼ばれ江戸に赴いた。寛永8年、83歳で逝去。門下には、岡本玄冶・野間玄琢・山脇玄心・井上玄徹・井関玄悦・饗庭東庵・長沢道寿・奈須恒昌・古林見宜らがいる。徳川に仕え始めてからは京都と江戸に交互に住んだため、今大路家は両方にある。(曲直瀬家は、3代目から今大路を名乗る)

 

                

  5.杉山和一(1610-1694)   『選鍼三要集』 図1図2図3図4図5 もどる 
 

著書:   『杉山流三部書』   「選鍼三要集」 「療治之大概集」 「医学節用集」

  伊勢国安濃津(現在の三重県津市)藤堂藩士杉山権右衛門重政(元和二年高虎に

 
    被呼出200石)の嫡男で幼名は養慶、幼くして伝染病により失明した。17歳ごろ、江戸で開業する盲人鍼医・山瀬琢一に入門したが、22歳ごろには破門される。その後京都へ行き、入江流鍼術などの奥儀を学び、再び江戸に出て開業。鍼の施術法の一つである管鍼(かんしん)法を創始。また鍼・按摩技術の取得、教育をする施設「杉山流鍼治導引稽古所」を開設した。本所一つ目江島杉山神社(東京都墨田区)に杉山和一が祭られている。この地は和一を側においた徳川綱吉から拝領したもの。江ノ島の弁財天に参った時、管に入った松葉があり、管鍼術を思いついたため、弁天を信仰していたという。著書に、鍼治講習所の初級者向け「選鍼三要集」、中国古典の鍼理論書「療治之大概集」 和一の臨床記録「医学節用集」がある。  

 

          

 

  6.名古屋玄医 (1628-1696) 『丹水子』 図1図2図3 もどる 
 

著作:  『丹水子』 『丹水用薬序例』 『難経注疏』 『医方規矩』 『医方門餘』       

 『金匱要略註解』 『三焦心包絡命門弁』『纂言方考命門弁』

 
   後藤艮山、山脇東洋、吉益東洞ら古方派の先駆けとされる医学者。明の喩嘉言や薛己の書に啓発され、李東垣、朱丹渓の考え方一辺倒で行く危険を説き、『内経』『難経』『諸病源候論』『傷寒論』『金匱要略』の諸書を一貫した医書として把握しようと努め、多数の著作を遺す。原南陽 『叢桂亭医事小言』に、その評伝があり、次のように言う。「名古屋玄医と云う人は丹水子と号して、至りて功者の大家なりけるとなり。『医方問余』『難経註疏』と云う書を著し、附子を多く使用する療治にて、痢病に逆挽湯とて天下に広く通用する方は、此の丹水子の方なり。此の一事にても其の功しるべし。」古方派の祖と称されるが、診察の際の心得として、望診には素問の『玉機眞藏論』などを参観すべしと述べており、後の古方派のような極端な立場ではなかったという。40代で足が不自由となったが学問も診療も続け、意欲的であったと伝えられている。  

                   

  7.貝原益軒(1630-1714)    『大和本草』  図1図2図3図4 もどる 
  著書:  『大和本草』 『菜譜』『花譜』 『養生訓』 『和俗童子訓』 『五常訓』『大擬録』『和州巡覧記』  
    筑前国(現在の福岡県)福岡藩士、貝原寛斎の五男として生まれる。名は篤信、字は子誠、号は柔斎、損軒(晩年に益軒)、通称は久兵衛。福岡藩3代光之に藩医として仕える。 藩費による7年間の京都留学で本草学や朱子学等を学ぶ。このころ木下順庵、山崎闇斎、松永尺五、向井元升、黒川道祐らと交友を深めたという。その後、福岡に帰り、朱子学の講義をしたり、朝鮮通信使の供応などに従事した。藩命により『黒田家譜』を編纂。また、藩内をくまなく歩き回り『筑前国続風土記』を編纂する。風寒暑湿などの外邪だけでなく、食欲、色欲、惰眠、言語をほしいままにする欲や喜・怒・憂・思・悲・恐・驚の七情の欲という自らの内なる邪をもコントロールし、心の平静を保ち、運動をして長寿を全うすべきであると説いた。人生の三楽は、道を行い善を楽しみ、健康を楽しみ、長生きして楽しむこと、という。  


 

  8.稲生若水(1655-1715) 『本草綱目』  図1図2図3 もどる 
 

著書:   『炮炙全書』 『本草喉禁』 『詩経小識』 『和蘭陀本草図経』 『本草図翼』

      『結髦居別集』 『新校正本草綱目 五十三巻』 『庶物類纂 (内362巻)』

 
    淀藩の御典医・稲生恒軒の子として生まれる。本名は正治。医学を父から、本草学を大阪の福山徳潤から、儒学を京都の古義学派・伊藤仁斎に学んだ。加賀金沢藩主・前田綱紀に儒学者として仕え、『本草綱目』を補う博物書である『庶物類纂』の編纂を命じられた。元禄10年、40代の始め頃からその執筆を始め、362巻を書いたが正徳5年(1715)死去。その後、若水の子、稲生新助や弟子の丹羽正伯らが8代将軍吉宗の命で638巻を書き上げて、計1000巻の大著として完成させた。こうした書は本草学から、動植物全体を対象とする博物学へ学問の方向を転換をさせたともいわれる。門人には、野呂元丈、丹羽正伯、松岡恕庵らがいる。稲生若水や門人たち本草学者・博物学者は西洋の博物学を取り入れ、近代植物学などへ向かう道を拓いていく。  

                    

  9.香月牛山(1656-1740)     『老人必用養草』 図1図2図3図4 もどる 
  著書:   『牛山活套』 『牛山方考』 『薬籠本草』 『婦人寿草』 『小児必用養育草』 『老人必用養草』  
    筑前国(現在の福岡県)遠賀郡、に生まれる。貝原益軒に儒学を学び、豊前(現在の大分県)中津侯の藩医、鶴原玄益に医学を学ぶ。30歳のとき豊前中津侯小笠原氏の侍医となり、その後44歳の時に京都に出て開業。大覚親王の病気を治したことで名医の評判をとった。61歳のとき小倉侯小笠原氏に招聘されて小倉に移り住み、85歳の天寿を全うするまでを過ごした。香月牛山の著書の多くは庶民にもわかりやすいようにと仮名交じり文で書かれ、その基本は『和剤局方』『万病回春』など後世派の考え方であったが、かつて先祖が香月城主であった頃から伝えてきた家伝の秘方も載せられているという。また『薬籠本草』(1728)は金元医学の医説に立脚した本草書で『本草綱目』などを参考に、常用薬物100種について諸家の薬理の説をあげ、それに自身の治験例を示す。  

 

 

    10.後藤艮山 (1659~1733)     『[校正]病因考』 図1図2図3図4 もどる 
  著書 (弟子のまとめたものも含む ):  『師説筆記』 『艮山文集』 『病因考』 『艮山先生遺教解』
   

  名を達、字を有成、通称左一郎、艮山・養庵は号である。江戸に生まれ、儒学を林鳳岡、医学を牧村卜寿に学ぶ。独学で医学を学び「一気留滞論」を唱え始める。『艮山先生遺教解』の中には艮山の語として「宋明諸家の陰陽旺相・臓腑分配区々の弁に惑わず、百病は一気の留滞に生ずることを知らば即ち思い半ばに過ぎん」という有名な言葉がある。

「一回の肉食は十回の野菜や三服の薬より大益がある」と言い、内傷の病は食事で治すことを薦めた。当時は医者といえば僧侶のように剃髪するのが一般的であったが、艮山は髷を結ったままでいた。
 


    11.松岡玄達(恕庵)(1668-1746 )   『用薬須知』  図1図2図3図4 もどる 
 

著書:   『用薬須知』 『千金方薬註』 『食療正要』 『蕃藷録』 『烟草録』 『広参品』 『怡顔斎何品』

  『用薬須知後編』 『用薬須知続編』 『本草綱目記聞』

    松岡玄達(通称・恕庵)は 1668 年京都に生まれる。儒学を山崎闇斎、伊藤仁斎に学んだが、『詩経』に書かれる動植物名を理解しようと、本草学者・稲生若水の門に入った。8代将軍吉宗の時代、江戸の本草学発展のための施策として、恕庵ら京都の本草学者が幕府の招聘を受け、江戸医学館に招かれた。恕庵は集められた本草の薬事検査をする和薬改会所に加わり、我が国の薬種流通の取り決めである「和薬種六ヶ条」の制定に貢献するほか、「救荒本草」といわれる飢饉のための対策、あるいは各地の産物誌をまとめ、殖産興業をめざす政策などに携わった。 門弟に小野蘭山、戸田旭山、服部艸玄、浅井図南、谷川士清、横地島狄子、直海元周らがいる。  

 

   12.望月三英(1680-1769)  『医官玄稿』  図1図2図3図4 もどる 
  著書:   『医官玄稿』 『医門多疾』 『三世方』 『明医小史』 『玄餘草』『焚餘小集』
    高松公と丸亀公の侍医を勤めていた雷山を父に持ち、この父に医学を学び、儒学を服部南郭に学んだ。名は乗、字は君彦(たかひこ)、号は鹿門(ろくもん)。5代将軍綱吉にお目見えし、幕府の医師として出世し、8代将軍吉宗の頃には長崎に舶載された医学や儒学の本を望みのままに購入させるなど、特別な計らいをもって遇せられたと伝えられており、浅田宗伯の『皇国名医伝』には、三英が「吾をして海内有する所の方書を獲りこれを徧(あまねく)読ましめば大快ならざるや」と言ったことを聞いて、徳川の秘庫の書物や舶載の書をほしいままに読ませたということが紹介されている。また、この浅田の評伝には瘧の治療に詳しかったことが書かれている。  

 

   13.香川修庵(1683-1755)                  『一本堂行餘医言』 図1図2 もどる 
 

著書:  『一本堂行余医言』 (30巻 ただし刊行されたのは22巻まで) 『一本堂薬選』 『医事説約』
      『傷寒論考』 『灸点図解』

   名を修徳、字を太冲、号を修庵、堂号を一本堂という。姫路生まれ。18歳で京都に上り、後藤艮山に医学を学ぶ。また儒学を伊藤仁斎に学ぶ。人格高潔至誠の人と評される。艮山門下で、『素問』『霊枢』より金元に至るまでの医書を渉猟しつくしたが、その結果、それらの医書は実際の臨床には役にたたないと結論した。医藉に失望した後、修庵は「聖道と医術は一本」として孔孟の思想を学び、古今の医書の採るべきところをとればよい、と唱え、「一本堂」を名乗る。「我より古を作る」との豪語が有名。実際の医療に関しては臨機応変の態度があり、民間薬を使う治療や温泉療法など、自らが確かめながら効果のある治療法を探っていたと思われる。『一本堂薬選』など、親試実験の成果をまとめ、180種の薬物について薬能・鑑定を記し自説を展開している。  


 

   14.丹羽正伯(1691-1756) と 野呂元丈(1693-1761)  『普救類方』 図1図2図3図4図5 もどる 
 

著書・編書 :  『庶物類纂(増補)』 『普救類方』

   伊勢の出身。名は貞機、字は正伯。同郷の野呂元丈と共に、山脇玄修を師とし、また稲生若水に本草学を学んだ。丹羽正伯の性格は豪邁、野呂元丈の性格は敦厚であった、と浅田宗伯の『皇国名医伝』は伝える。享保年間に正伯は幕府の命で『庶物類纂』を撰し、ふたりは共に箱根、日光、富士山に登り、吉野、熊野、北陸道、白山、妙高、佐渡、伊豆諸島へと採薬の旅をして、報告書を作った。無医薬の民にも簡便なる方剤を与えたいという思いから、幕府は民間に『普救類方』と名付けた本を分け与えたが、その実際の部分を担ったのは丹羽正伯、野呂元丈であった。現在の千葉県船橋市薬園台にあった下総薬園の管理も任されていた。同地には薬園台村の人々によって顕彰碑が建てられている。野呂元丈は採薬石の仕事に携わり、清国に行こうとしたが許されなかったという。  

 

 

   15.吉益東洞 (1702-1773) 『薬徴』 図1、  図2、  図3、  図4 もどる
 

著書:口授のものを含む :  『医断』 『医事或問』『古書医言』 『類聚方』 『方極』 『藥徴』 『建殊録』

   名は為則、通称は周助(介)。はじめ東庵と号し、のち東洞。安芸出身。山脇東洋の弟子ではあるが、名古屋玄医・後藤艮山の影響も受けている。傷寒・金匱を重視する古方の医師の中でも先鋭的な存在。万病一毒説を唱え、峻剤を用いて攻撃的な治療をし、瞑眩にこだわった。ものごとを単純化することの好きな日本人に、その主張は受け、今でも高く評価する人もいる一方、論理をなくしてブラックボックス化してしまった考え方に批判もある。浅田宗伯の『皇国名医伝』では、「天下の医を医するに非ざればすなわち疾を救うの功多からず」と京都に上ったことが書かれており、医名を上げることを志したものの、40を過ぎても患者がなく、土偶を作って糊口をしのいでいた時に山脇東洋と知り合いとなった。東洋と交流するうち、著書も著して諸侯が次々と会いたがるほど有名になったと記されている。  

 

   16.山脇東洋(1705-1762) 『山脇東洋方函並諸家秘方』 図1図2図3 もどる 
 

著書・編著 : 『蔵志』 『外台秘要方』 『養寿院医則』 『山脇東洋方函並諸家秘方』

   

名は尚徳、字は玄飛、子樹、通称道作、はじめ移山、のち東洋と号した。京都生まれ。父の師匠にあたる山脇玄修の養子となる。曲直瀬玄朔-山脇玄心-山脇玄修-山脇東洋と連なる曲直瀬流の医学を学ぶ一方、後藤艮山の実証的精神をも受け継いでいる。杉田玄白より17年も前に人体解剖を行い、『蔵志』を刊行する。『外台秘要方』の翻刻をした。実弟の清水敬長も『金匱玉函経』の翻刻をしている。

松原一閑斎を講主に『傷寒論』を読む会を吉益東洞と山脇東洋とで行っていたが、一閑斎は「東洞僻説多し」と批判。東洞は脱落した。しかしその後も東洋とは共に『左伝』を読み、この二人の交流は終生続いたと伝えられる。山脇東洋は東洞より3つ下。
 

 

 

   17.浅井図南(1706-1782)  『扁鵲傳割解』 図1図2図3 もどる 
 

著書 : 『扁倉伝割解』 『家脉講柄』 『篤敬斎文稿』 『詩集歎餘草』 『発句集』

   名を惟寅、字を夙夜、通称を頼母、京都の人。図南は号。父の東軒は名古屋に赴いて医業に従事したが、図南は京都に留まった。脉に明るいことで有名で、その医術は『素問』『難経』『扁鵲倉公伝』を基本にし、分析するに『傷寒論』をもってした。図南は、『内経』が既に述べたことは張仲景は『傷寒論』の中では略し、『内経』で言い尽くされていない部分については、仲景が詳しく論じたのであって、この二つの書は相背くものではない、と考えて『素問』『難経』を貶斥する香川修庵・吉益東洞を批判し、その言説に同調する人々を「無識者」が眩惑されている、と歎じていた。『扁倉伝割解』は『扁鵲倉公伝』の文章を大字で書き、小字で注釈を記入した解説書。『史記』を始め多くの古典藉に拠り詳説している。頭注には「路按」「路曰」とある。息子の正路の注かと思われる。  


   18.田村藍水(1718-1776) 『人参譜』 図1図2図3 もどる 
 

著書:  『参製秘録』 『人参耕作記』 『人參譜』 『竹譜』 『甘蔗製造傳』 『琉球産物誌』 『木綿培養傳』

    『薬肆人参類集』 『醴泉祥瑞説』 『日本諸州薬譜』

   名前を登、字を玄䑓、通称を元雄、号を藍水という。江戸の人。祖父・父もまた医師であった。少年の頃から本草学で名を知られていたため幕府は人参をつくる朝鮮種人参製法所(人参館)を作った時、これを田村藍水に任せた。朝鮮や対馬藩が献じてきた人参の苗を育てて国産に成功した。また三〇余州を巡って採薬の旅をし、人参、甘蔗、白河附子、白牛酪、芒消、火浣布、綿羊など、植物に限らず、薬の材料や飢饉の時の食糧になるものなど、さまざま見つけた。研医会図書館には田村藍水のご子孫に当たられる草野冴子さんがまとめられ、当館に寄贈してくださった『万年帳零話』(まんねんちょうこぼればなし)という本がある。ご実家にあった藍水とその子・西湖が残した公用日記を翻字なさった時の逸話や藍水の周辺のことなどが記されていて、興味深い。  

 
 

   19.小野蘭山(1729-1810) 『古方薬説』 図1、  図2図3、  図4 もどる 
 

著書 :  『花彙』 『本草綱目啓蒙』 各地『採薬記』

   名は識博(もとひろ)、通称は喜内、字を以文、号を蘭山、朽匏子。京都出身。13歳の時から父の師であった松岡恕庵に本草学を学び始めるが、ほどなく師 恕庵は亡くなり、病弱のため仕官をあきらめ、独学で本草学を勉強した。25歳で京都丸太町に私塾・衆芳軒を開塾、多くの門人を得る。門弟に杉田玄白、木村兼葭堂、飯沼慾斎、谷文晁、狩谷棭斎がいる。蘭山は、読書と抄写を無上の楽しみとする人であったという。京都の居宅の庭には多くの珍しい植物が植えられ、膨大な動物・鉱物も含む標本資料が蒐集されていた。70歳の時、幕府医学館から招聘され、その講師を勤め、合わせて幕府の物産に関する御用も任せられた。関八州を中心に14か国(通過地を含め24)の採薬の旅行もして、記録を遺している。また、薬品会を催し、珍蔵品を公開した。  



 

   20.永富独嘯庵(1732-1766)  『漫遊雑記』 図1図2図3 もどる 
 

著書 : 『漫遊雑記』 『吐方考』『嚢語』

   幼名は鳳介、あるいは鳳。字は朝陽。通称は昌安。長門に生まれる。13歳で医師、永富友庵の養子となる。荻生徂徠の高弟である山県周南に学んだが、群書を渉猟し敏捷絶倫であった。弟子たちが取り囲んで矢継早に質問を浴びせてもその答えること転丸の如くであったという。14歳で江戸に出る。医学を奥医師 井上元昌に学び、服部南郭、大宰春台に儒学を学ぶ。17歳で一旦帰郷するが、医学の道を深めようと19歳で京都へ赴き、山脇東洋の門に入る。東洋は鳳の才を認め、諸州への歴訪を許した。その後、吐方を奥村良筑、オランダ医学を吉雄耕牛(1724—1800)に学ぶ。長崎への修行の旅の模様を『漫遊雑記』に著した。吉益東洞も自分が死んだら永富独嘯庵が医流の冠となると言ったほど、周囲に期待されていた人物であるが、35の若さで喘息を患い亡くなった。  

 

 

  21.池田瑞仙(1734-1816)  『戴曼公治痘秘中之真秘』 図1図2図3図4図5図6図7図8図9図10 もどる 
 

著書 編書:  『痘科辨要』 『痘疹戒草』 『痘科鍵刪正』 『治験録』『遺構』 『戴曼公治痘秘中之真秘』

  名を獨美、字を善卿、通称を瑞仙、号は出身地岩国の錦帯橋にちなんで錦橋。曾祖父の池田正直が明の戴曼公に天然痘の治術を学び、家学として伝えていた。岩国には痘瘡が少なかったので、患者の多くいた安芸厳島に行って治療にあたり、家に伝えられていた痘疫治療の効をあらためて確信したという。ここで名を上げ、大阪の商家に呼ばれたり京都に出向いたりするが、幕府の躋寿館にて痘書を講義するよう命が下り、江戸に赴いた。殆ど死にかけていた子供を涼膈散に麻黄穿山甲を加えて三日間薬を与えたところ助かったという例もあった。江戸に滞在していた時に上野出身の村岡直郷を養子とした。直郷は池田霧渓と名乗り、2代目瑞仙として活躍。父と同じく医学館の教授を勤めた。展示の本は双葉葵の布で装丁してあり、徳川ゆかりのものだろうか?  

 

 

   22.荻野元凱(1737-1806)  『刺絡編』 図1図2図3 もどる 
 

著書・口述書・校正:   『養寺院方函』 『台洲園丸散方』 『台州園随筆之一・ 吐方編』 『台州園随筆之二・ 刺絡編』
         『台州園方録』 『台洲先生医話』 『台州先生腹脈論』 『温疫論』『知足斎梅花無盡蔵』

   

字(あざな)は子元。通称は左仲。号は台州、鳩峰。加賀の生まれ。
永富独嘯庵に吐方を教えた奥村良筑に学ぶ。独嘯庵は『吐方考』を著し、元凱は『吐方編』を著した。長崎遊学の経験があり、平賀源内とも親交があったという。

朝廷医官として寛政6年皇子を診療し典薬大允(たいじょう)となる。幕府に招聘され医学館教授も勤めたが、再び上洛し、朝廷の尚薬(しょうやく)に任じられた。『吐方編』は奥村良筑(1687-1761)に学んだ医法をまとめ、『刺絡編』は山脇東門唱導の西洋刺絡を論じた書。『知足斎梅花無尽蔵』は永田徳本の医学として伝えられたものを校訂して出版している。漢蘭折衷家といわれた。元凱同様、朝廷の御医であった和田東郭とも交流を持ち、その墓も近いという。文化3年4月20日死去。70歳。
 

 

 

   23.和田東郭 (1742-1803)   『蕉窓雑話』 図1図2図3 もどる 
 

著書 : 『蕉窓医譚』『蕉窓雑話』 『蕉窓方意解』『導水瑣言』 『傷寒論正文解』『東郭医談』
     『東郭腹診録』『脉診一家伝』 門人の筆記による

   名は璞(はく)。字を韞卿(うんきょう)、泰純。別号に含章斎。 本草家の戸田旭山、古方家の吉益東洞に学ぶ。京都で開業、朝廷の御医となり、当時、子ができなかった中宮を診察し、その原因は「久寒」(慢性的な冷え)があるためで、附子などで温めるのがよいと診断し治療。翌年には皇子が誕生したという。この功績により東郭は寛政11年、医師としては最高位の法眼となる。「一切の疾病の治療は、古方を主として、その足らざるを後世方等を以て補うべし」と主張した。東洞門ではあるが、中庸の考えの持ち主。著作は門人の筆記になるものが多いが、多数ある。 書名にある「蕉窓」は東郭の塾の窓外に芭蕉があったことから名づけられたらしい。四逆散の使い方、水毒の研究などに功績を遺している。  

 

 

   24.中神琴渓(1744-1833) 『生生堂傷寒約言』 図1図2図3図4 もどる 
 

著書:  『生生堂雑記』 『生生堂養生論』 『生生堂治験』 『生生堂医譚』 『生生堂傷寒約言』 
     門人の筆記であり 自身の著作はない。

   近江の出身、名は孚、通称右内、字を以隣、琴溪は号。大津の宿場において、梅毒治療で名をあげ、後、上京する。琴渓の治術は多岐に亘り、(1)鈹鍼(瀉血),(2)潅水,(3)灸,(4)湯薬,等であった。従来の医術や医学思想を学びながらも、独自に編み出した囚われのない方法を自在に使い、臨機応変の治療をすべきだと主張していた。『皇国名医伝』には百方を使っても治らず、歩けなくなっていた石山寺の童僧の治療を師の僧侶から頼まれると、琵琶湖のほとりに連れて行き、木に縛り付け、刀で脅し、童僧が悶苦憤乱して気絶するとこれを解いて薬を与え、按摩したところ筋脉が通暢して歩けるようになったという話が載っている。人間の生きる力を引き出すための強引な方法であったのだろうか? また養生の方剤を尋ねられると、自分は疾医であり、疾を攻す薬のことは知っているが、人を養うことのできる薬は知らない、と答えたという。92歳の長寿であった。  

 

 

   25.山田図南(1749-1787)  『傷寒論集成』 図1図2図3図4 もどる 
 

著書 :  『骨度辨誤』 『傷寒考』 『傷寒論集成』 『傷寒検証』 『金匱検証』 『天命辨』 『新論』


       『備用方』 『檢量撥亂』 『敗鼓録』『桑韓筆語』

   名は正珍(まさたま)、字は宗俊で、この字で世に称された。幕府医官を勤める。父の正朝は神童と言われた人で儒官として徳川に仕えたが、正珍もまた同じ命を受けた。儒学を山本信有に学ぶ。16歳の時、朝鮮からの使者が来ると呼ばれて書記を務めた。また正珍の著『骨度辨誤』に韓医李聖甫が序を書いた。秋田候の病を診る時、巫術を行う者がいたので、その術と自分の薬とどちらが効くか比べようと言って、これを退けたという。『傷寒論』をよく研究し『傷寒考』を著した。その後『傷寒論集成』を脱稿しないうちに肺を病んで亡くなったので、友人である加賀の太田元貞が門人と共にこれを世に出した。当時、京都には中西惟忠がおり、江戸の山田正珍と並び称された。世の人は二人が敵対しているとみていたが、実は山田は中西を心服しており、尊敬していたという。  

 

 

   26.吉益南涯(1750-1813)  『気血水三等薬徴』 図1図2 もどる 
 

著書 : 『医範』『続医範』 『気血水薬徴』 『方庸』『成蹟録』 『続建殊録』 『傷寒論精義』

   名を猷。字は修夫。号は、はじめは謙斎のち南涯。吉益東洞の次男。京都で生まれる。東洞の長男は天然痘で亡くなり、猷が24歳で家を継いだ。若い時から古書を反復して読み、ことに『傷寒論』はどこにいても読めるように、本を家のあちらこちらに置いてあったという。父の万病一毒説が、拠るべき形状がないために学者を惑わしている、と考え、45歳の時『医範』を著し、気血水の説を世に問う。気血水が循環することで人は営養されるが、これが停滞すると病の元である毒となると説明した。その治療法は仲景の方法を使った。父東洞の信奉者からはこの新説を批判されたが、3千人と言われる多くの弟子を育て、西洋医学も流入してくる状況の中で、大きな潮流を作ったことは確かである。  

 

 

 

   27.片倉鶴陵(1751—1822) 『傷寒啓微』 図1図2図3図4図5 もどる 
 

著書:  『傷寒啓微』 『産科發蒙』 『黴癘新書』 『青嚢瑣探』 『静倹堂治験』 『保嬰須知』


     『痘瘡規』 『雑病試効』 『腫脹彙編』 『屠蘇考』

   名を元周。字は深甫。号を鶴陵という。相模の人。片倉家の養子となり、幼い時から多紀元悳の門に入っていた。25歳で開業した所は隣家に前野良沢門人の蘭方医 嶺春泰がおり、その知識も吸収したという。さらに京都に上り百日ほどの間ではあったが賀川玄迪に産科を学ぶ。非常に難しい状態の患者でも、勇決し、意表をついた治療を行い、手をこまねくような時もよく考え処方をし、奇効を奏することがたびたびであった。その治療は蛕蠍で下したり、燔鍼(焼き針)を使ったり、数百壮もの灸で臍帯が脱しないものを助けたりなど、他の医者が敢えてしないようなことも行った。著作には名を高めた産科に関する『産科發蒙』、ハンセン氏病と梅毒に関する『黴癘新書』、和文の医書『静倹堂治験』他、『腫脹彙編』『屠蘇考』など、著作もまた個性的なものが多いように思われる。  

 

 

   28.原南陽 (叢桂亭・昌克・玄璵(与)) 1753 -1820 『三喜直指篇』 図1図2図3図4 もどる 
 

著書:   『三喜直指篇』『砦草』 『叢桂偶記』『叢桂亭医事小言』 『経穴彙解』『寄奇方記』

      『傷寒論夜話』 『解毒奇効方』

門人の編書として『南陽先生遺稿』 『南陽先生文集』

   名は昌克、室号は叢桂亭。水戸藩医の子として水戸に生まれる。儒学を伯父 戸崎淡淵に、医学を父に学んだのち、京都に赴いて山脇東門、賀川玄迪らに師事して古医方、産術などを学び、儒学は皆川枳園についた。その著作をみると、『温疫論』など、明代に発してその後中国に流布している新しい考え方と、古代より伝わる『傷寒論』の考え方との両方を学んでおり、その根底には儒学者としての広く深い教養が感じられる。古典理論の基礎の上に新しい知識も取り入れるという考えであった。人物・識見に優れ、藩内での発言権も強く、父・原清漣と同じく後進の指導にあたった。江戸医学館の多紀元簡との交友もあった。  

 

 

   29.多紀元簡(1754-1810) 『素問識』 図1図2図3 もどる 
 

著書:   『傷寒論輯義』 『金匱要略輯義』 『素問識』 『霊枢識』 『扁鵠倉公伝彙考』 『脈学輯要』

    『医賸』 『観聚方要補』

   字を廉夫、通称を安長。号は桂山、また櫟窓という。浅田宗伯の『皇国名医伝』には「性絶倫、一覧して終身忘れず」「性高雅、勢利に澹なり」とあり、名家の生まれにして、高い能力の持ち主でしかもゆったりとした人物であったらしい。30代の中頃、白河候(松平定信)に呼び出され、医学の疑難を問われた。元簡は30余条を説き、白河候を満足させ、奥医師となり将軍家斉の侍医を勤める。その後、後学のために医学教諭を勤めることになり、『素問』『霊枢』『傷寒論』『金匱要略』等の医学古典に関する注釈書を著し、多くの医書の校勘、刊行、蒐集をした。また、水戸候の死を予言したという逸話も伝わる。古今の文字で医事に関わるものは悉く読み研究したと言われるほどであったが、晩年奥医師の人事にまつわる件で左遷されたことがあり圭角を持つ人でもあったようだ。  

 

 

  30.華岡青洲(1760-1835)  『春林軒丸散方録』 図1図2 もどる 
 

著書: 『痬科鎖言』 『産科鎖言』 『治痢鎖言』 『痬科方筌』 『痬科神書』 『疔痘辨名』
       『乳巖辨』 『天刑秘録』 『青嚢秘録』 『膏方便覧』『丸散録』『傷寒講義』

 

   名を震。字は伯行。通称は随賢。号を青洲という。紀伊の人。吉益東洞に学び、外科を大和見水に学んだ。諸州を歩いてその医術を研鑽した後、内外合一活物窮理の説を唱えた。和歌山県立医科大学のサイトではこの言葉を青洲の医療に対する考えを表したものとして紹介しており、内外合一は「外科を志すものは内科も学ぶべきである」、活物窮理とは「生きたもののなかに真理があるから、深く観察して患者自身や病の特質を見極めなければならない」と述べている。薬餌の効かぬものは鍼灸を施し、鍼灸の効かぬものは手術をして治すべきだと主張して、自ら発明した麻酔薬・通仙散を使って乳がん、骨疽、痔瘻、瘰癧、癭瘤を治療した。世の人は華陀の再来だと言って診察を請う者が多くいた。しかし、後継者に恵まれず、華岡流は衰退してしまう。  

 

 

  31.多紀元胤(1789-1827) 『医籍考』 図1 もどる 
 

著書:   『厳氏済生続方』 『黄帝蝦蟇経』 『本草衍義』 『医籍考』

   字(あざな)は紹翁・奕禧。号は柳沜。通称は安良、安元。江戸生まれ。多紀元簡の三男。父に医学を学び、太田錦城と古賀精里に儒学を学ぶ。父・元簡の急逝で23歳で家督を継ぐ。医書の復刻に力を注ぎ、『厳氏済生続方』『黄帝蝦蟇経』『本草衍義』などを世に出している。さまざまな書に引用されている佚文により校勘・訂正をし、欠落した部分を補足して完全な元の形に復元して出版することを目指していた。2855の中国医書について「存」「佚」「未見」の判断と、序跋文・伝記・考証を記す『医籍考』は現代でも出版される。肖像画を見ると眼鏡をかけ、穏やかそうな雰囲気の人物だが、代々受け継がれてきた医書を深く研究し、それを世に公開していく力を持っていた。享年39歳、早すぎる死である。  

 


  32.多紀元堅1796-1857  『薬治通義』 図1図2図3 もどる 
 

著書:   『金匱玉函要略述義』 『経籍訪古志』 『雑病広要』 『時還読我書』 『傷寒広要』
      『傷寒論述義』 『女科広要』 『診病奇侅』 『素問参楊』 『素問紹識』 『薬治通義』

   通称は安叔、茝庭・三松・存誠薬室などの号がある。多紀元簡の5男で、元胤は腹違いの兄である。兄同様、父に医学を学び、太田錦城に漢学を学ぶ。15歳の頃より朝鮮の医学全書を使って佚文(既に散逸してしまった文献)を探り出して古医書を復元する作業に取り組んでいた。兄を手伝い、父・元簡の遺した著作を刊行したり、新たに見つかった仁和寺本『黄帝内経太素』や宋版『外台秘要方』を使って古藉の復元や研究を続ける。37歳より医学館の講師を勤め、42歳で奥医師となり、幕府の医官として、また医学教育の中心としての役割を果たす。兄・元胤は早逝するが、その著作『医籍考』を刊行し、江戸考証学の盛期を開き、儒学の基礎の上に「六部書」(素問・霊枢・難経・傷寒・金匱・本草)を学ばせ、渋江抽斎や森立之ら多くの弟子を育てた。  

 

  33.浅田宗伯(1815-1898) 『治瘟編』 図1図2図3図4 もどる 
 

著書:  『皇国名医伝』 『治瘟編』 『暴瀉須知』 『橘黄年譜』 『勿語薬室方函口訣』
      『先哲医話』 『皇国脚気考』 『橘窓書影』

 

   信州栗林村(現・松本市)の代々の医家に生まれる。14歳で高遠藩の侍医に医学を学び、その後京都で医学と史学を学ぶ。史学の師は亡くなる直前の頼山陽。20歳より江戸に出、医業を営む。江戸では多紀家の人々とも交流した。しだいに医師としての名声が高まり、医学館(もとは多紀家の私塾、後に幕府の医学教育を担った)に出入りするうちに将軍の侍医となる。当時、医学館では『医心方』の刊行に取り組んでおり、宗伯もこれに参加したという。『曠日雑記』や『橘黄年譜』という日記を遺しているため、その生涯の細かなところも伺える。またその診療記録『橘窓書影』もある。明治に入ってからも後の大正天皇となられる明宮の危険な状態を救うなど活躍は続いた。しかし、医学制度の変更により、晩年は漢方の復興運動に尽くすが、その志は閉ざされてしまった。