図1『草木図説 前編』 飯沼慾斎 平林荘蔵板
今月は5月の『植学啓源』の紹介文にも出てきた飯沼慾斎の『草木図説』を取り上げます。
飯沼慾斎については、「飯沼慾斎翁略伝」『柳亭飯沼家過去帳』「慾斎断簡」などいくつかの伝記がありますが、そうした資料間で齟齬があるらしく、昭和59年発行された飯沼慾斎生誕二百年記念誌編集委員会の編集した『飯沼慾斎』では、慾斎は23、4歳のころ、京都に行き福井丹波守の門に入ったのだろうとしています。また、本草学については、それより若い22歳のころ、駿河志摩の採薬に出ていた小野蘭山に入門していたということで、「略伝」には、幕命を帯びて採薬を重ねている蘭山に教えを受けられることを「歓喜雀躍」したと表現しています。
京都で漢方を修めた後、大垣に帰り、医家としての活動を始めますが、ここでさらに蘭方のすぐれた部分に気づき、江馬蘭斎門人の吉川廣簡に蘭書の手ほどきを受けます。さらに蘭学を進めるため、講を募って資金をつくり、江戸に1年間の遊学をし、宇田川榛斎の門で蘭学の実力を身につけます。江戸から大垣へ戻ってからは、町医として蘭方を施すようになり、江馬活堂の『藤渠漫筆』に「益々繁盛して大垣第一等の流行医となり一か年千円余の収納あり」と記されるほどとなりました。
しかし、この頃はまだまだ身分格式がうるさく言われた時代。御典医たちとの関係を上手くこなす人物ではなかったらしく、同時期に御目見・帯刀を許された若園春養が藩医たちに対し如才なく付き合っていくのに比べ、慾斎は藩上層部の医師たちとあまりよい関係ではありませんでした。
このこともあってか、慾斎は50歳で大垣城西の別荘・平林荘に隠退します。今回ご紹介する『草木図説 前編』にある慾斎自身の序文には、「余屏居して客を絶ち、園に潅ぎて老を忘れ、書を読みて日を消す」と述べていますが、世間と距離をおいて植物研究の生活を始めました。そして12年の年を経た頃より『草木図説』を起筆、さらに12年後の安政3年(1856)に「草部第一帙(巻一から巻五)」が上梓されました。
この最初の出版から5年後、文久元年(1861)には第二・第三帙(巻六から巻十五)が出されます。第四帙が出されたのは80歳の時でしたが、「木部」は未だ完成しておらず、これを115年後に完成出版したのは北村四郎博士でありました。
伊藤圭介の『泰西本草名疏』、宇田川榕菴の『菩多尼訶経』『植学啓原』、岩崎潅園の『本草図譜』はもちろん、宇田川榛斎の翻訳していた『ショメル百科全書』や江馬家が所蔵していた『ドドネウス』『ボイス』『ワートル薬性譜』(3書は研医会図書館にも原書や訳書があります。)など、国内外の本草書・植物書に啓発されて作られた『草木図説』は確かにそれまでの中国本草書とは異なり、植物の部分図があったり、器官の詳しい説明があったりして、近代の博物学へつながる書物だと感じられます。(図〇参照)
慶應元年(1865)閏5月5日、飯沼慾斎は83年の人生を終えますが、少年の頃より心躍らせた植物の研究を人生の後半で思う存分取り組んで、学者としては素晴らしい生き方だったのではないでしょうか。
図2 同本 飯沼慾斎「草木図説前編引」
図3 同本 「草木図説前編引」つづき
図4 同本 「草木図説前編引」 つづき
図5 同本 つづき 「草木図説前編引」 飯沼慾斎識
図6 巻一より マツムシソウ
図7 巻五より ワダソウ
参考文献: 飯沼慾斎生誕二百年記念誌編集委員会編『飯沼慾斎』昭和59年(1984)
国文研データベース リンク 研医会図書館所蔵『草木図説 前編』巻1から5
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100266248/1?ln=ja