書庫の中ではときどき、新しい和本をみつけることがあります。大概は、古い本の複製として、昭和時代に作られた本です。今月はこんな複製本をご紹介いたします。
『唐鑑真過海大師東征傳』奈良時代に日本に渡ってきた揚州出身の有名な高僧、鑑真の伝記です。鑑真の絵像とふたつの序文につづき現れる巻頭には「法務贈大僧正唐鑑真過海大師東征傳」という書名が書かれていますが、同じ冊子の後ろ半分に付けられた神田喜一郎(1897-1984)の「解説」に依れば、「本書の最古の写本である東寺観智院本や、それに次ぐ高山寺本の例によって考えると、唐大和上東征傳といふのが、まづ本書の元来の題名であるらしい」ということです。
神田喜一郎の解説では、唐大和上東征傳の鈔本として5つの書籍、版本として9つの書籍があるとしており、この複製本は、宝暦12年、鑑真の千年忌の記念に東大寺戒壇院がつくった刊本を模して作られたものということです。この複製本が東方学術協会から出されたのは昭和21年6月。太平洋戦争の敗戦から1年も経っていない時期に、奈良時代に艱難を克服して日本に渡ってきた中国僧の伝記が作られたわけで、その当時の学者たちの思いにさまざまの想像をしてしまいます。
面白いことに、この本の5丁めには朝日新聞の「天声人語」の切り抜きが3枚、「陸軍豫科士官學校」と印刷された原稿箋のメモ、わら半紙に鉛筆書きの小文1枚、唐招提寺の略縁記が入っていました。原稿箋には「甘蔗、甘藷 = 甘薯 = 蕃薯」と、サトウキビの異名が並んでおり、切り抜き記事は昭和23年3月1日、同3月23日、4月12日のものらしく、それぞれ、鑑真の名前があがっています。3月1日の記事は、「近く砂糖が一人一斤ずつ数か月配給になるという」と始まり、砂糖は紀元前500年ごろインドのガンジス河のほとりに産したというのが一番古い記録であり、わが国には鑑真がもたらした、ということが書かれています。3月23日の記事にも砂糖がアレキサンダーの大遠征のころすでにインドで栽培され、中国には唐の太宗の頃伝わり、日本には鑑真が持ってきたということ、また4月12日の記事には鑑真が味噌の製法を伝えた話がでています。小文の書き手は、朝日新聞に載っていた「鑑真が日本に砂糖をもたらした」という説が、実は航海の失敗であった回のことなので、そうとはいえないのだ、という主張をしています。
小文がはさまれていた5丁めには鑑真が80貫の銭で軍船を買い、食糧や仏像仏具、香料、日用品、工人らを集めたことが述べられており、確かに石甜鼓三千石とか石蜜蔗糖、蜂蜜十斛、甘蔗八十束と出ていますが、この航海は悪風を被り、漂流したこともその後に書かれています。
実際に日本に渡れた時、鑑真は何を持っていたのでしょうか。この複製本にその答えがあるかどうかはわかりませんが、この先も読んでみようかと思いました。気軽に読める複製本とはいえ、76年前のものです。先人たちの労作や思索の跡を追うのも楽しいものです。
図1 『唐鑑真過海大師東征傳』扉 鑑真像
図2 同本 巻頭
図3 同本 紙片の入っていた五丁め
図4 同本 奥付 昭和21年6月に発行されている