『歴代天皇御陵』 中泉行徳:輯
研医会を設立した中泉行正の父である中泉行徳は、引退後、歴代の天皇の御陵について踏査をし、その後資料を集めて1冊の本にしています。若い時にはドイツ、フライブルクに留学していた行徳は、後藤家から中泉家に養子に入った人で、中泉家に入ってから名づけられた「行徳」という名を嫌がったというエピソードが伝えられています。
私どもが東大の眼科学教室の資料を整理させていただいた時には、眼科学教室の歴代室長の大きな写真が並んでいる最初に、この行徳の姿があり、また、資料の中からは行徳宛ての葉書が出てくるなどして、驚かされました。東大眼科学教室のくわしい資料の様子は、下記リンクよりご覧ください。
http://kenikailibrary.world.coocan.jp/indexshoshi.html
『歴代天皇御陵』は昭和11年10月7日に発行された本で、知人などに配り、「敬神崇祖、忠君愛国の思想を涵養するの資に供せんと」したもの、と序文に書かれています。大戦前夜、日本を強い国家にしなくてはならない、という意識が世の中全体にあった時期の書物で、東京大学で指導していた行徳は、自らを「人心の師範たるべき学官」と任じて、天皇を敬い、国を愛することを重視していたのでしょう。
本の最後の跋には、明治45年7月10日、東京帝国大学の卒業証書授与式に明治天皇が臨御され、酷暑の中長くお立ちのままおられ、教職員の自分達は「惶ノ至ニ堪ス」と、感動したことを記しています。この2週間後、明治天皇不予が伝えられ、「三十日登遐セラル」という事態に、行徳は心をおおいに揺さぶられたのかもしれません。また、昭和天皇の摂政時代、と言いますから大正時代のことと思われますが、昭和天皇も東京帝国大学に行啓なさり、その「玉音」を拝聴したとも書かれています。こうした皇室との実際の関わりの体験が、引退後の行徳を動かし、この本が作られたのでしょう。
目次をみると、第一代神武天皇から第百二十三代大正天皇までの御陵の名称とその場所が示されています。最初のうちは大和、河内が多く、あとの時代はほとんどが山城となっています。そんな中、淳仁天皇の淡路、安徳天皇の長門、後醍醐天皇の大和が目立ちます。地図や写真もあり、そうしたものをながめるだけでも興味深い本です。