●「明治人たちの教科書」年表
『環海異聞』 |
1807 |
文化4年 丁卯 初夏 写本 |
大槻茂質(おおつきしげかた)質問 志村弘強(しむら ひろゆき)筆記 |
『長崎土産』 全 |
1847
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弘化4年未年春正月 |
文齋礒野信春 著 |
『氣海觀瀾廣義』 |
1856 |
安政三丙辰年刻成 |
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『西字發蒙』単 |
1856 |
安政丙辰新鐫
知新堂蔵版 |
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『訓蒙 窮理圖觧 初編』
上・中・下
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1868 |
明治元年 戊辰 初秋
(明治4年6月再刻) |
福澤諭吉 著 |
『頭書大全世界国盡』 |
1869 |
明治2年8月 |
福澤諭吉 訳 慶應義塾蔵版 |
『挿譯英吉利會話篇 初編・三編』 |
1872 |
明治5年 壬申年正月
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『化学要論』 一〜四 |
1872 |
明治壬申六月(明治5年) |
杉田玄端 訳述 |
『物理階梯』上・中・下 |
1872 |
明治壬申初冬
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文部省 (片山淳吉 題言) 岐阜県翻刻 七千部限 |
『実学究理 培養秘録』 |
1873 |
明治6年10月新鐫 |
佐藤玄明窩翁 口授 佐藤信渕先生 筆記 織田氏蔵版 |
『物理全志』 |
1875 |
明治8年第1月
上梓 煙雨樓蔵 |
宇田川準一 訳 市川盛三郎 閲 |
『牙氏初学須知』
一〜五下
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1875
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明治8年11月 翻刻
明治9年9月翻刻御届 明治9年10月發閲(門構えなし)
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原著 ガリグェー(1872年 識) 文部省 田中耕三 訳 佐藤太郎 訂 清水世信 校 狩野良信・北爪有卿 画 出版人 京都府平民田中治兵衛、京都府平民佐々木惣四郎
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学校必要 『色圖問答』 全 |
1880 |
明治13年3月16日翻刻御届 同年4月刻成
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家原政紀 著 鹽津貫一郎
西亰玉文堂蔵 |
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● 書籍のご紹介
『環海異聞』
醫臣 大槻 茂質(おおつき しげかた)質問
志村 弘強(しむら ひろゆき)筆記
文化4年 丁卯 初夏 (1807年)
写本
長崎に着いたロシア船の写真を見る(4ページを合成してあります)
『環海異聞』の挿絵約90点のPDFです。写真をクリックしてください。
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寛政五年癸丑(1793年)の冬、仙台の船子が遭難。数ヶ月の漂流の後、「ヲンデレイッケ」という島に着き、ロシアの役人に連れられて「オホーツカ」「ヤコーツカ」「イルコーツカ」「ペトルブルカ」を経て「ムスクワ」に行き、国王に謁見した後、ヨーロッパとカナリア諸島、「伯面児(ブラシリヤ)」「マルケイサ」「サンベイッケ」「カミシャーツカ」を通り、文化元年(1804年)九月、長崎に帰ってきたという。その12年間にわたる漂流と帰国までの旅のようすと、その間に見聞きしたものをまとめた記録である。大槻茂質(玄沢)が質問し、志村弘強が筆記したとある。津太夫を中心とした漂流民の世界一周の記録は、作家吉村昭によって『漂流記の魅力』という新書にまとめられている。
内容の概略は以下のとおり。
巻之一 |
寛政五年癸丑 石ノ巻出帆後台風に遭い数ヶ月漂流し 甲寅六月「オニテレイッケ」という処に漂着し 「ナーツカ」という湊に一年滞留した記録。 |
巻之二 |
「ナーツカ」滞留中の記録。 ならびにロシア船の護送で 乙卯四月此湊を発して本領の内地「オホーツカ」という湊に行き、数月逗留。その八月より「オホーツカ」を出立、「ヤクーツカ」に至るまでの道中記。 |
巻之三 |
「ヤクーツカ」にしばらく滞留し、「イルコーツカ」まで送り届けられた道中記。並びに数年留まる事になった記録。
八ヶ年滞留中記事分類
街衢居室
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巻之四 |
飲食
服飾 |
巻之五 |
寺観道教
産育及赤子命名
婚 |
巻之六 |
葬
祭
衛庁 並 官名職掌政治兵卒武備
刑獄
銭貨 |
巻之七 |
尺度 並 里程
秤量
楽器
気令
耕農
交易
醫療
物産
数量
土俗風習 |
巻之八 |
言辞
天文 地理 諸国地名 本国通称 時令
人倫 身体 居室 動物 器材 衣服織?
飲食 言辞 |
巻之九 |
癸亥の年三月 王命下りて十三人の者新都府「ペトルブルカ」へ行く道中記。並びに旅館滞留中の記。 |
巻之十 |
国王に謁見以来の次第。並びに都下巡覧の記 |
巻之十一 |
都府滞留中の記 二 |
巻之十二 |
六月十六日「カナスタ」出帆。テネマルカとアンケリアへ舟を泊しカナリア島へ船を寄せ 「エカテリーナ」湊へ向かう。 |
巻之十三 |
甲子(文化元年)四月下旬「マルケイサ」という裸島にとまり、さらに赤道直下を西に行き「サンベイッケ」島を経、ロシア領の「カミシャーツカ」という湊へ七月初旬着き、八月五日出帆、九月初旬長崎に入津まで。 |
巻之十四 |
長崎港入船上陸の次第 |
巻之十五 |
往来滞留前後の間の新事 |
各巻の挿絵を見ると、セイウチやテンなどの動物、顔に飾りをつける北方民族の風俗、大寺院の建物、観覧車のような遊具、クッションの織物や刺繍など、いろいろなものが載せられている。偶然にせよ、海外に出た日本人の目に映ったありとあらゆるものを大槻茂質は問うたようだ。
大槻茂質は一関藩出身の蘭学者で、杉田玄白と前野良沢の弟子であったため、大槻玄沢という通り名がある。号は磐水。『蘭学階梯』『北槎異聞』『重訳解体新書』を著す。この『環海異聞』を書くにあたっては、漂流民たちの話だけではなく、先にロシアを経て帰国していた大黒屋光太夫ほか、いろいろな資料に当たってまとめたらしい。
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『長崎土産』 全
文齋礒野信春 著
弘化4年未年春正月(1847年)
写真を見る (表紙) (唐寺) (オランダ館)
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明治まであと20年という頃に出された本である。江戸時代、唯一海外との交易を認められていた長崎という土地には、他の場所にはない大きな魅力があったにちがいない。その長崎について、美しい版の文字と絵とで、楽しく紹介している本である。
前半は序や歌や漢詩が載せてあり、それぞれに美しい版の文字でつづってある。
次にあるのが絵図である。「崎港略図(ミナトノヅ)」に始まり、清朝人(トウジン)、紅毛人(オランダジン)、唐船、唐館(トウジンヤシキ)、コンビラ山、眼鏡橋、蘭船、蘭館(オランダヤシキ)、西洋の女性、象、聖霊祭、諏訪社、神事踊り、御崎、唐寺、唐人の風習(媽姐揚=ボサアゲ)の絵図がある。
後半は絵図それぞれについての詳しい説明がなされる。絵を見ながら文章を読むととてもわかりやすく、おもしろく感じられる。
なかで、「阿蘭陀正月献立」というところの記述がおもしろい。洋食器や食べ物についての記述である。
「凡そ阿蘭陀の食事をなすには、箸を用いずして、三又鑚(ホコ)、快刀子(ハアカ)、銀匕(サジ)の三品を以ってす。ホコは三つ股にして、尖りあり。象牙の柄をつく。これを以って、器中の肉を刺しとどめ、ハアカをとってきり割き、これをサジにてすくいとって食うなり。サジは銀を以って造り、そのふち、花形をなせり。あらかじめ右の三器と白金巾を中皿にいれてタアフル(卓子)の上、主客の前に各々一枚を具す。白金巾を膝の上に蔽い置いて、一菜を食し了れば、すなわち三器及び金巾をかえ置くなり。(以下略)」
いつの間にか、ナイフが「ハアカ」になってしまっている。これは、フォークのことではないだろうか? またナフキンには金の刺繍でもしてあったのか、「白金巾」と書いている。肉を食べる方法が事細かに書いてあり、長崎に行った者がオランダ人の食事のようすを驚きとともに見ていたさまが思い浮かぶ。
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『氣海觀瀾廣義』
安政三丙辰年刻成(1856年)
川本幸民 譯述 (幸は下の横棒が3本)
京都三條通 出雲寺文治郎
大阪心斎橋博労町 河内屋茂兵衛
江戸日本橋通二丁目 山城屋佐兵衛
同 芝神明前 和泉屋吉兵衛
写真を見る (表紙) (巻末挿絵)
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『氣海觀瀾廣義』は、丁寧に物理学の基礎を説いた内容の本である。それぞれ、巻末には図が載せてあり、本文中に「第○○図は・・・」などの表現があって、文章と図とが関連づけられている。
たとえば、巻十では「温」として熱に関する記述が続き、比熱、放射熱、熱による金属の膨張と収縮・物質の三態・気化熱・水銀柱などの説明がある。今なら、中学校の理科程度であろう。
巻十一では、「越歴的里失帝多(エレキテリシテイー)」という題名で、電気に関する説明がなされている。中国では「電気」という言葉を使っているとしながらも、すでになじんでいた越歴(エレキ)という言い方をしている。ここでは現在の電気の学習とは少し違った方向で話が進められ、静電気の実験や動物電気など、電気というものを目で確かめ、体験することが中心にされているようである。ボルタの実験に関する実験として、銀銭を舌上に、亜鉛板を舌下に置いて舌の前で触れさせ、その時の味がエレキだ、というものまで紹介されている。
巻十二ではそれまでに述べた水、大気、温、越歴(エレキ)に関係するものの、そのいくつかの要素が組み合わされて起こる現象について取り扱い、「前編餘義」としている。解説されているのは気圧と沸点の関係、高気圧と低気圧、気象、フランクリンの避雷器についてである。
また、「北光」として、「如是火象を見すが如し。然るに我が邦には何故に北方にのみこれを見、また何故に数年間甚強く、又数年殆どこれを見ざるか。未だ十分にこれを解すること能はず。(原文は漢字片仮名交じり文)」とある。オーロラのことであろうか。さらに「惑光」として、人だまの火について科学的に解説し、「落星」も同様のものとして説明しているが、これは隕石を人だまの大きいものと誤解しているのではないだろうか。巻十二は噴火山と地震で終わりとなっている。
冊子「第五篇」では巻十三で磁石、巻十四で光線屈折、巻十五で視学諸器・眼目視法を扱う。磁石についてはその歴史に始まり、当時最新の医療への応用までが書いてある。巻十四の「光」では分光器で分析した光の性質、光の合成、光と熱の関係、虹、日暈、月暈、さらに「光線屈折」として、空気と水の境での光の屈折や蜃気楼の話題を提供している。
最後の巻十五では望遠鏡やめがね、双眼鏡などの光学器について語っている。「焦点」という言葉は「燃点」と言われており、未だ訳語が定まっていなかった時期の資料だということがわかる。
巻十五の終わりでは、この光学器と関連付けて人の眼について解説がなされるが、日本人が人体をこのようにとらえるのはこの頃が最初ではなかったかと思われる。漢方の中では眼は肝臓と結び付けられて考えられていたようだが、ここにきて、日本人は人の身体をモノとして見る方法を身につけていく。
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『西字發蒙』 単
安政丙辰新鐫 (1856年)
知新堂蔵版
写真を見る (表紙) (対訳文)
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「富国強兵」のスローガンが聞こえてきそうな本である。
ABCを教える、といいながら、実は兵隊たちを動かすための用語がかかれている。むしろ、ここでは言葉を覚えるよりも、軍隊に関するさまざまなことがらの概念を、日本人の頭の中にいれることを目的に書かれた本のように思える。例を引いてみよう。すべて銃の扱いについてのオランダ語だ。
inspectie=(fan)'t gen' eer (銃を=査照 アラタメヘ)
アーン aan (照準 ネラヘ)
ヒュール huur(點放 ウテ)
ラードト laadt(装薬 コメイ)
オプ スコードル ヘッゲウェール op schouder='t gebeer (銃を=肩前へ ツツヲ カタヘ)
訳語に号令調のふりがながふってある。
銃の扱いに関する言葉の他、軍隊の階級や組織、長さの単位も載っている。
また、巻末には銃やその付属品が図で表わされており、軍隊で使われる道具として、糧篭(リュックサック)、鼓(小太鼓)、傳令管(ラッパ)などの図が掲げられている。
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『訓蒙 窮理圖觧 初編 上・中・下』 福澤諭吉 著
明治元年 戊辰 初秋(1868年) (明治4年6月再刻)
写真を見る (挿絵)鍋の底は黒い方が倹約になるという説明
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慶應義塾をたてた福澤諭吉が、青少年に英米の物理学の基礎を教えようと書いた書物。凡例に、
一、 此書 翻訳の体裁を改めて 専ら通俗の語を用い 且つ 窮理の例を挙げて 図を示すにも 多く日本の事柄を引きたるは ただ 児女子に 面白く解し易からんことを願うものなり。
一、 右の如く 日本の事柄を引くといえども ただ 西洋の品と日本の品を入替たるのみにて 其理に至りては 毫も私の意を交えず 悉く英吉利す亜米利加の原書に出点(いでどころ)あり 引書の目録 左の如し。
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英版 |
「チャンブル」窮理書 |
1865年 |
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亜版 |
「クワッケンボス」窮理書 |
1866年 |
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英版 |
「チャンブル」博物書 |
1861年 |
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亜版 |
「スウィフト」窮理書 |
1867年 |
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亜版 |
「コル子ル」地理書 |
1866年 |
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亜版 |
「ミッチェル」地理書 |
1866年 |
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英版 |
「ボン」地理書 |
1862年 |
右の外 英亜雑書数部 (注・かな遣いは変えてあります)
とあり、その姿勢が表されている。
内容は、挿絵から推察できると思われるので、以下に列挙する。
第一章 温氣の事 (うんきのこと)
(挿絵)
・ 太陽光を凸レンズで集め、その焦点で物が焼けるようす
・ なだれ
・ 焚き火
・ 鍛冶屋
・ 鉄なべのつるに籐が巻いてあること
・ 火消し人足の刺し子の着物
・ 猿カニ合戦の栗がはじけたところ
・ 冷えた鉢に熱いものを入れると割れること
・ 黒い覆いと白い覆いをかけた鉢の雪のどちらが先に融けるか
・ なべの底は黒いほうが倹約になる
・ 寒暖計
第二章 空気の事
・ 空気の層(上空にいけばいくほど薄い)
・ スポイドの原理
・ 水鉄砲
・ ポンプ
・ 水銀柱
・ 晴雨器
・ 茶碗を手のひらに吸い付ける
・ 霧吹き
第三章 水の事
・ やかん
・ 噴水
・ 手桶を使った噴水の実験
・ 樽を使った噴水の実験
・ 山の湧水の断面図
第四章 風の事
・ 廻り燈篭
・ ろうそくを使った暖かい空気と冷たい空気の実験
・ 海風陸風
・ 大阪安治川出船の図
第五章 雲雨の事
・ 虫干し
・ 鋳物師
・ 蒸露鑵(らんびき=蒸留装置)
・ 西洋のらんびき
・ 高い山の雲
・ 宇治川の水
・ 焼酎
・ 打ち水
第六章 雹雪露霜氷の事
・ 秋の草花
・ エジプト国の図、ピラミッド
・ 霜害よけの焚き火
・ 雪の結晶
第七章 引力の事
・ 振り子
・ 太陽と地球
・ 天体望遠鏡
・ 顕微鏡
第八章 昼夜の事
・ 太陽・地球・月
・ 地球儀
・ 地球の昼と夜
第九章 四季の事
・ 太陽と四季の地球
第十章 日蝕月蝕の事
・ 太陽・月・地球(日食・月食の説明)
・ 太陽・月・地球
・ 日蝕の図
・ 月蝕の図
今だったら、小学校高学年の生徒が習う内容程度のことだが、当時は何歳くらいの者に向けた本だったのだろうか。挿絵は身の回りにあるものを描いていて、読む者が日常の暮らしの中で見ることと、物理学を結びつけて考えやすくしている。
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『頭書大全 世界国盡』 一〜六
福澤諭吉 訳述
明治2年己巳初冬
慶応義塾蔵版
写真を見る (表紙) (ペルシャの図)
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序の中で、福澤諭吉は、合衆国「ニウヨルク」州の士人「ワルプランク」の文章を序文に代える、として約6ページ半の訳文を載せている。その内容は、教育の重要性が説かれている。少し、抜粋してみよう。
・・・その禍福の源たるべきものは、教授先生の風俗とその人品の高下に在ること知るべし。あにこれを至重の任と云わざるべけんや。
又、功徳の大なるものあり。その大なるものとは何ぞや。慈母の教育、すなわち是なり。政府その体裁を寛大にすと雖も、議政その法を巧にすと雖も、治国の君子経済のために策略を運らすも、盡忠の義士報国のために身を殉ずるも、その国に益するところの実功を論ずれば、母の子に教えるの功徳に及ばざること遠し。
この(母の)教えにつぎて功を奏するものは、学校教師の教えなり。その功徳、また小ならず。
(原文はカタカナ漢字交じり文 句読点なし)
凡例を見ると、この書はすべて「イギリス、アメリカで発行された地理書、歴史類を取り集め、その内より肝要のところだけ通俗に訳したるものにて、私の作意はすこしも交えず」書かれたものであるという。また、書名にある「頭書(かしらがき)」とは、本文の上欄に目につくように書かれた冠注を言うが、その名のとおり、本編のページは2段組みとなっており、上段には小さい字で細かな説明がなされ時に挿絵が入り、下段では大きな文字で項目の大略が述べてある。(巻の六は附録とされ、本文に挿絵が入る普通の組み方)
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本書の目録を記す。
目録
一の巻 発端 亜細亜洲 同頭書図入
二の巻 阿非利加洲 同頭書図入
三の巻 欧羅巴洲 同頭書図入
四の巻 北亜米利加洲 同頭書図入
五の巻 南亜米利加洲 同頭書図入 大洋洲 同頭書図入
六の巻 地理学の総論 天文の地学 自然の地学 人間の地学
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また、地名人名についてはオランダ語ではなく、英語の読み方に従ったとし、こうした固有名詞に関しては「 」をつけて区別している。おもしろいことに、半濁音の表記について、
書中は、はひふへほの仮名文字にまろき濁点をつけてぱぴぷぺぽと記たるあり。これは、はひふへほにもあらず、又ばびぶべぼにもあらず、のっぺらぽうというぺぽの音なり。
とある。「のっぺらぼう」は明治のころは「のっぺらぽう」だったのである。
『世界国盡』の各巻には美しい色刷りの地図が載せられていて、これを与えられた子どもはさぞや嬉しかっただろうと思われる。かなり正確な地図に江戸時代の読み本のような変体仮名で地名が入っているのは、ふしぎな感じがする。が、この江戸とヨーロッパの融合した地図こそ、明治という時代をよく表わしているように思う。すべての文字にはふりがながふられ、子どもでも楽に読めるようになっている。世界の各国に比べても識字率が高かったという江戸時代の子どもたちは、驚くべき速さで、明治の子どもに変身していったのだろう。
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『挿譯英吉利會話篇 初編・三編』
明治5年 壬申年正月
桂潭島一悳 譯
東京書林 袋屋亀次郎・丸屋庄五郎
写真を見る (表紙) (会話文)
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明治の実用的な英会話を表わした小冊子。ページを横書きにして7段に分け、各段を3行にしている。1行目には片仮名で読み方を、2行目には筆記体の英語を、3行目には日本語の意味を片仮名で書いている。各ページは四周界線、上魚尾より上に「英會話挿譯」、下に巻数、ページ数がある。一巻は30ページからなっている。
当館では初編と三編を所蔵しているが、初編の扉には、コンヴェルセーション/CONVERSATION/談話(ハナシ) とあり、まず、good
day. good evening. good night. good morning. という挨拶から始まる。it
is going to snow. (ユキガ フッテ キマシタ)のような天候や時候の挨拶、do you like apples
pears peaches cherries strawberries currants plums and apricots?
(アナタ、リンゴガ、オスキカ、モモカ、サクラカ、イチゴカ、カルラントカ、スモモカ、アンズカ?) などという、食物に関する表現がある。
また、三編の方には、that time will be very tedious to me. (ソレガ、ワタクシニハ、ヨホド、ナガクオモハレマセウ) と、船旅での会話か、恋人の会話かと思われるようなものもあり、この本がどのような読者を想定して書かれたものなのか、想像力をかきたてる。
さらに、三編では、now I will give you a potion to stop the fever. (サア、アナタニ、ネツヲトル、クスリヲ、アゲマセウ) など、医師と患者の間で交わされるような会話も集録されている。
三編の最後には、you know nevertheless that there is a time for all
things. (ケレドモ、アナタ、オシリナサルガ、ナニゴトモ、ジセツガアル) や、a time for talking
and a time for holding ones tongue.(ハナシヲスルニモ トキガアリ、クチヲトヂルニモ トキガアル) という意味深長な例文までついている。国の行く末をかけて、海外の人々にも意見を聞こうと努めていた明治の青年たちの姿を彷彿とさせる例文である。
例文は思いつくままに羅列しているように見えるが、筆者の頭の中では一応場面ごとに並べてあるように思える。いずれにしても、明治の人々が即実践として使える英語をこの本で学んだようすの伺える内容である。英語の例文の文頭が大文字で始まっていないのは何か理由があるのだろうか。
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『化学要論』 一〜四
杉田玄端 訳述
明治壬申(明治5年=1872年)六月
写真を見る (表紙) (挿絵)
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凡例によれば、原書はアメリカ、イリノイの化学兼察地学博士「ウ・ホストル」の『ホルスト・プリンシプル・オブ・ケミストリイ』(1871年刊)。
未だ訳語が定まっていない頃の訳述であったため、訳者杉田玄端は次のように述べる。
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一、 書中挙ぐる所の名物 既に先輩の訳を経る者は之を襲用し 訳なき者は新たに
訳字を充つ 即ち「エカイワレント」(equivalent)を恒価 「シムボール」(symbol)を符号 「ホルミュール」(formula)を記式と訳するが如し
*( )内は筆者注 |
それにしても、原書が発刊されたのが1871年で、その年のうちに杉田玄端が巻頭の「凡例」を書いている。「凡例」の最後には、「明治四年辛未年十二月 沼津 杉田擴玄端 識」とある。アメリカの最新の本を翻訳したのであろう。当時は、かの地から日本まで、船便しかないことを考えると、翻訳も刊行も相当なスピードでこなしていったのに違いない。明治のすばらしさは各藩にいたエリートたちが、それぞれに新しい国づくりに力を発揮しようと努めたことである。
杉田玄端は、文政元年(1818年)江戸の生まれ。尾州藩の医師幡頭信aの子であったが、天保5年(1834年)17歳で杉田立卿の門下生となり、天保9年、請われて杉田家の養子となり玄端と称した医師である。弘化3年、宗家を継ぎ幕府に仕え、幕末の外国奉行翻訳御用としてその才を発揮している。
当時の翻訳事業は数少ない英才を集めて必死で行われたらしく、文久年間あたりの幕府の蕃書調所では、遣欧使節に優秀な人材をとられ、残った者も「御急ぎ翻訳物銘々多分に引請、必至骨折」するありさまだったという。また、幕府が開いた開成所の語学教育の状況については、「教育の方法杜撰にて、猶漢書を読むが如し・・・・・・且教授未だ其任に堪えざるを以ってなり・・・・・・開成所創立以来八年にして未だ学功の挙るを見ず」という批判も浴びている。若い者に教えることより、目の前の大量の文献を翻訳することに忙しかったのであろう。この本の訳者、玄端もこうした中で日々、翻訳作業をすすめていたのである。
明治維新後、玄端は新政府からの出仕の勧めを断り、徳川家の新封地駿河で沼津兵学校の校医頭となる。その後、沼津陸軍医学所を興し頭取となった。明治2年12月、軍医学所は沼津病院と改称され、杉田玄端頭取以下、医師11名により診療を始めた。明治5年8月、沼津兵学校閉鎖時には、附属の沼津病院を私立病院とし、これは「駿東病院」さらには、現在の沼津市立病院へと続いている。
明治6年、慶応義塾で福澤諭吉が私財3000円を投じて、イギリス医学を志向した「慶應医学所」を設立するが、ここで玄端は附属診療所の主任となり、息子の武もその教授となっている。また、明治8年東京神田に尊生舎と称する診療所を作り、この頃から沼津の方は医師相磯格堂に託し、自身は東京に移ったという。明治22年(1889年)麻布永坂町の自邸において72歳で
逝去。遺志により、沼津に墓碑が建立された。
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官版 『物理階梯』上・中・下
文部省 片山淳吉 題言 辻士革 校 羽山庸納 画
明治壬申(明治5年=1872年)初冬
岐阜県翻刻 七千部限
写真を見る (表紙) (表紙裏)
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文部省の出した物理の教科書である。すでに類書は刊行されているが、児童に教えるという観点から改めて作られたということがその序に述べてある。
主として、イギリスのパークルが児童のために書いた『ファースト レッスン イン ナチュラル フィロソヒー』(1870年刊行)を訳したもので、その他にもクエッケンボスの格物書は「区分宜しきを得て 情緒明晰」のため、入れたり、わかりにくいところはガノーの理学書を抄訳し、加えたりしているという。
児童に向けての書といいつつ、その用語はなかなか難しく、たとえば、「第三課 偏有性」の部分には、
凝聚性 粘着性 堅硬性 柔靭性 弾力性 碎脆性 受展性 應抽性
などといった言葉が使われている。漢語を使いこなしていた当時の日本人は難しいとは感じていなかったのだろうか。
『物理階梯』には、挿絵も入っているが簡単なものが多く、説明のための図という程度で、『初学須知』の挿絵の方が丁寧に描かれている。
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実学究理 『培養秘録』
佐藤玄明窩翁 口授
佐藤信渕先生 筆記
明治6年10月新鐫 織田氏蔵版
写真を見る (表紙) (跋)
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序に寄れば、天明甲辰(4年=1784年)の年に佐藤玄明が、佐藤信渕を連れて諸国を遊歴している途中、炎暑の酷きに遭って具合が悪くなり、野州(今の栃木県)足尾の旅亭にとどまった。そして、自らの命が長くないことを悟って、四代続く耕農の業に関して秘伝を信渕に語って聞かせたという。
その内容は以下のとおり。
培養秘録目次 |
巻一 |
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第一章 |
古代ノ農政ヲ論ス |
第二章 |
産霊ノ神機ヲ論ス |
第三章 |
農政ハ天意ナルヲ論ス |
第四章 |
農業ハ国政の根本タルヲ論ス |
第五章 |
農政ノ開基ヲ論ス |
第六章 |
諸處ノ?政ヲ論ス |
第七章 |
培養ノ発端ヲ論ス |
第八章 |
中耕ハ培養ノ最要ナルヲ論ス |
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巻二 |
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第九章 |
糞苴ノ料三十六種ヲ論ス |
第十章 |
活物十二種ノ性功ヲ説キ人糞ノ化醸法ヨリ灰糞及臘土合肥三和本肥 下肥淡水糞等ノ製法ヲ論ス |
第十一章 |
小便ノ妙用ヲ詳カニシ醸熟ノ法ヨリ小便アラヌカ小便灰等ノ 製法 ヲ論ス |
第十二章 |
馬溺ノ妙用ヲ論ス |
第十三章 |
馬溺ノ性功ヲ詳カニシ凝固塩及璞?砂(どうしゃ)透明?砂焔硝并焔硝精等ノ製法ヲ論ス |
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巻三 |
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第十四章 |
鳥類ノ尿ヲ精究シ且鶏尿ヲ多ク得ルノ仕方即チ数多ノ鶏ヲ飼テ鶏卵
ヲ夥ク得ル法ヲ論ス |
第十五章 |
?(さん)尿ノ性功ヲ詳ニシ??(さんえん)ト ?蛾ノ用法ヲ論ス |
第十六章 |
獣肉汁ノ良効ヲ論ス |
第十七章 |
魚肉貝肉ノ用法ヲ論ス |
第十八章 |
乾魚并魚油粕ノ用法ヲ論ス |
第十九章 |
活物油ノ用法ヲ論ス |
第二十章 |
人髪獣毛ノ用法ヲ論ス |
第二十一章 |
諸獣骨及大魚骨類ノ殻ヲ焼テ灰トナシ肥養ニ用ルノ法ヲ説キ又蛎殻灰ヲ製スル法ヲ論ス |
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巻四 |
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第二十二章 |
穀肥ノ用法ヲ論ス |
第二十三章 |
苗肥ノ用法ヲ論ス |
第二十四章 |
芝肥ノ用法ヲ論ス |
第二十五章 |
埋肥ノ法ヲ論ス |
第二十六章 |
腐肥ノ性功ヲ論ス |
第二十七章 |
厩肥ノ性功ヲ論ス |
第二十八章 |
草木灰ノ用法ヲ論ス |
第二十九章 |
糠(あらぬか)肥ノ用法ヲ論ス |
第三十章 |
粉糠肥ノ用法ヲ論ス |
第三十一章 |
油糟ノ用法ヲ論ス |
第三十二章 |
糟粕ノ用法ヲ論ス |
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巻五 |
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第三十四章 |
客土ノ用法ヲ論ス |
第三十五章 |
川砂ノ主能ヲ論ス |
第三十六章 |
詰石ノ法ヲ論ス |
第三十七章 |
溝泥(どぶどろ)ノ主張ヲ論ス |
第三十八章 |
炙日(ほしつち)泥の理ヲ論ス |
第三十九章 |
煤肥ヲ論ス |
第四十章 |
屋下芥焔硝ノ性功ヲ論ス |
第四十一章 |
石灰ノ性功ヲ論ス |
第四十二章 |
土硫黄ノ性功ヲ論ス |
第四十三章 |
紅砒ノ性功ヲ論ス |
第四十四章 |
紅砒鑛ノ性功ヲ論ス |
第四十五章 |
紅砒灰ノ性功ヲ論ス |
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以上 |
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序の中に、「この口訣は歓庵翁以来 一子相伝の法なり 然るに 漸々箇条加わり 今にては初の三倍に及べり 故に 此を暗記すること容易ならず 汝よく勉強せよ 我曾て此を書に筆せんことを欲せしかども 此を書に著す時は 或いは道に明かならざる士大夫は 其事の汚穢(おわい)なるを醜(にくみ)て 此を軽視し 理に暗き百姓等は其業の精密なるを嫌いて 此を謗り やもすれば天地の万物を発育し給う神恩を蔑如し 農務をなげやりにすることあらんを畏る 故に此を口授秘訣とす(原文は漢字片仮名交じり文)」とあり、我が家が守り伝えていかなくては大切な知識が失せてしまうのだ、ということを述べている。
玄明は7月13日に病床について口授をはじめ、24日に口授し終わる。翌25日から3日間、今度は信渕に暗誦させ、すべてを講し終わると、玄明翁は悦んで「糞苴(ふんそ)の配合法は農政の学において極めて大切なる奥義なり」と言う。そうして、その後は昏睡状態になり、8月3日に亡くなったということである。
江戸の町では糞尿が売り買いの対象であったという話があるが、当時の人々は農業にとって、これが重要な働きをすることをよく知っていたのであろう。その中でも、この書にでてくる方法は、非常に厳密な土壌改良の方法として、明治に至っても大切にされたのではないだろうか。
玄明が口述してからこの本が発行された明治6年まで、約80年の月日があるが、古くからの情報でも「秘伝」というと価値があったということだろう。明治の文明開化では西洋の科学が入ってきたが、単に西洋の知識を学ぶだけでなく、それまで日本人がやってきたことを、あらためて科学の眼で捉えなおそうと努力したのかもしれない。明治時代は江戸の科学の土台の上に築かれていたのだ。
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『物理全志』
宇田川準一 訳
市川盛三郎 閲
明治8年第1月 上梓
煙雨樓蔵
写真を見る (表紙) (水汲み装置の図)
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この本の「巻之一」の「総論」を現代仮名遣いにして、ご紹介しよう。
それ、物理の学たるや、両間万物の性質とその性質を変化せしむる原因とを究察するものにして、原名を『ナチュラル・ヒロソヒー』*
また、『ヒシックス』と称す。万有の原理を考究する学という義なり。その原因とは、すなわち引力、熱、光、及び磁気、電気を言う。この五者はすべて物体の性質を変化せしむる重要の原因なるを以って、物理学に従事せんと欲する者はすべからくまず、これを詳悉すべし。いやしくも、これを外にして他に求めんと欲せば、百孝千慮するとも、ついに一の得る所なきに帰せん。ゆえに、その要領を逐次論説す。
*Quackenbos著 "Natural Philosophy"
しばしば、日本の教育界で、現代の「物理」の内容が百年前と同じことを教えている、と言われるのを聞くが、確かに、この本の目次を見ると、私たちにもおなじみの項目が並んでいる。逆にいえば、明治の人々は大切な事項を取りこぼさずに日本の教育界に紹介したのである。私たちはその慧眼に驚かされるが、「これを外にして他に求めんと欲せば、百孝千慮するとも、ついに一の得る所なきに帰せん。」という文言に、呪縛されているのかもしれない。
訳者の宇田川準一は、医師であり蘭学者の宇田川榕菴【うだがわ ようあん】の息子で、先に紹介した『氣海觀瀾廣義』を書いた川本幸民の門人であった。群馬師範学校で教師をしており、『改正
物理小誌』などの教科書も書いている。現、群馬大学には明治前半期における代表的な物理専門書であるこの『物理全志』とともに、飯盛挺造の『物理学』など多くの物理学に関する書籍が残されているという。
赤羽明、高橋浩、玉置豊美、森下貴司、所澤潤らの科学史学会発表によれば、群馬県立文書館所蔵の文書等から調べた結果、明治19年から36年までの期間の群馬師範の入試科目には、必ず物理が課されているそうだ。物理を課す理由については、明治26年7月5日付の知事から文部省普通学務局長心得に宛てた文書の中で次のように説明されている。
(原文は漢字カタカナ交じり文)
一、今の学生に理化思想の乏しきは 一般の風習なり。依りて 理化思想を長せしめ 実業科施設の伏線ともなさしめんが為め 特に物理の一科を試験科目に加へたり。しかるに 単に物理に限りたる理由は 粗雑に種々の学科に渉らしめんよりは 物理の一科に止むる方 学ぶ者に取りても便益にして 且つ理化思想の厚薄を見んが為には 物理科をもって尤も適当と信じたるがゆえ 特に入学試験の科目と定めたり。
このような群馬師範学校の方針には、おそらく宇田川準一も関わりを持っていたと思われる。本書『物理全志』の校閲を担当している市川盛三郎もまた、『小学化学書』(全3巻)を著しており、わが国の理科教育にかかわっていた人物が、ともに協力しあっていたことがわかる。
また宇田川準一は、1881年(明治14年)には、『小学生理訓蒙附養生法』を著しており、この中では、コレラに関する予防法が説かれている。海外の文献を訳し、小学生用の教科書を書き、さらに公衆衛生の向上のための本も書く。明治の学者は忙しかったに違いない。
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『牙氏 初学須知』 一〜十一
原著 ガリグェー(1872年 識)文部省 田中耕三 訳 佐藤太郎 訂 清水世信 校 狩野良信・北爪有卿 画
明治8年11月 翻刻 明治9年9月翻刻御届 明治9年10月
出版人 京都府平民田中治兵衛 京都府平民佐々木惣四郎
写真を見る (表紙) (表紙裏)
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原序の初めに、この書の目的が記されている。
此書は 今はじめて世に公にするものにあらず。是より先、表題を異にして鏤行し四方に採用せらるること既に久し。学校の小児、製作所の工人、田舎の農夫、に必要なる諸書より、初学の要旨を撮集するものにして、児童はもとより、知らざるべからず。成人といえども、また備忘に供すべき書なり。
目録は以下のとおり。
目録 |
巻之一 星学
巻之二 地質学
巻之三 金石学
巻之四 植物学
巻之五 動物学
巻之六 物理学
巻之七 重学
巻之八 化学
巻之九 工学
巻之十 衛生学
巻之十一 農事 |
このうち、「巻之七 重学」とは、物理学の力学や機械工学に関する基礎を扱っているようだ。その「重学」の巻頭にある「第一 重学の名義 運動及び平均の觧」から少し抜粋してみよう。
重学は運動と運動を生ずる所の力とを講究し、その力を使用する諸種の方法を弁明するものなり。今、第十九世紀(現今の一紀にして、一千八百零一年より一千九百零零年の間、即我二千四六一年より二千五百六十年の間)に至り、人力の及ばざる所を補助して莫大の作業をなし得べき巧妙なる諸種の機関を発明せしは、まったく重学の功に依れり。 (原文は漢字カタカナ交じり文)
「重学目録」を以下に記す。
第一 |
重学ノ名義 運動及平均 |
第二 |
運動ノ現象 |
第三 |
重心(重力ノ中心) 平均 |
第四 |
機関 槓杵(テコ) |
第五 |
天秤 羅馬秤(羅馬人専之ヲ用井ルガ故ニ名ヅク 日本人ノ普ク用井ル者モ亦是ナリ。一名提秤) 桔槹秤(バスクユル)(一名吊秤平)
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第六 |
滑車 連滑車(ムーフル) |
第七 |
旋輪(トレイユ)横轆轤 直轆轤(カブフタン)歯輪(ルーダンテー) |
第八 |
鶴頚(グーユ)(器械ノ形状ヲ以テ名ヅク一名千斤架子又起重器)
及びシェーウル (牝山羊ノ義 蓋シ、其形牝山羊ノ角ニ類似セルヲ
以ッテ名ヅケシナラム) |
第九 |
斜面 螺旋 無端螺旋 |
第十 |
水車 |
第十一 |
蒸気機関 |
西洋諸国の科学技術に追いつくために熱心に勉強したのは子どもたちだけではなく、実社会に出ている者もそれぞれの立場からこうした科学の基礎を学んだのであろう。
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学校必要 『色圖問答』全
家原政紀 著
鹽津貫一郎 閲
西亰玉文堂蔵
写真を見る (表紙) (表紙裏)
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うすい16葉の小さい本である。しかし中を見ると彩色がされていてなかなか凝っている。
内容は色の合成について述べている。最初に三角プリズムの図を掲げて、太陽光線を分解すると7色に分かれると説明。また、三角プリズムで分光したものを再び凸レンズで集めると白色になるという光の合成について説明している。
そして、「凡(およ)そ 一色ごとに配合色と称ずるものあり 配合色とは その一色と相合(あいごう)すれば 太陽光線の白光を生ずる割合を 生ぜしむる所の色を指して云えるなり」と続く。
さらに原色は赤青黄の三色とし、それを赤5、青8、黄3の割合で混ぜると太陽と同じ白色になると言い、この5、8、3を合わせた16が色を配合する時の基本の数字だと説明する。
すべての色は原色の合成でできており、それぞれ固有に持つ配合色と合わせれば必ず太陽光線の白色になる。その割合を三原色で表わせば16か、その乗数になる、という理論である。
たとえば、
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柑(こうじ)8 (赤5 黄3)
緑11 (黄3 青8)
紫13 (赤5 青8) |
合計32 (赤10 青16 黄6) というような計算である。
色を理論や数値で理解しようとしたところに新しさや科学の眼を感じられるが、光の合成にはこの理論が通用するものの、彩色の場合は色を合成していくと黒になってしまうことに気づいていたのだろうか。
しかし、扉の書名の上に「学校必要」とわざわざ書いているところなど、著者たちの張りきっている様子がみられるように思える。
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研医会図書館
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