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このページは生徒や学生の皆さんに先人たちの生き方を知ってもらうために作りました。

明治12年生まれの医学者の伝記です。

眼科医 石原忍

           

 

公益財団法人 研医会 安部郁子

 

 みなさんは、色覚検査を受けたことがあるでしょうか? これからお話する石原忍はその検査の時に世界中で使われている「色覚検査表」を作った眼科医です。

 

たたみ一畳の母子教室

 石原忍は明治12年9月15日に生まれました。役所に届けるのが遅れたために、届出の書類では25日生まれ、となっているそうです。父の氏基は尾張藩の士族の出身で、大変体格のよい軍人でありました。母はレイ。ふたりの長男として生まれた石原忍は、この後、4人の弟と3人の妹ができて、8人兄弟の長男として育ちました。

 昔は、長男は家を継ぐ者として、とても大きな期待をかけるものでした。そうしたことが理由であるかはわかりませんが、母のレイは忍が3歳になると、百人一首を教え始めたそうです。たたみ一畳の母と子の教室で、向こうとこちらに座り、ていねいにお辞儀をして百人一首の歌を習いました。本を開いて一首ずつ習い、百日で百の歌を覚え、近所で評判になりました。この母と子の教室は、学問をすることの大切さと、人に教えを乞う時の礼儀の大切さを幼い忍に教え、ここで灯された学びの心は生涯を通じて豊かな光を放っていたようです。

 また、母のレイは仏教の導師を家に招き、子供たちとともに、因果応報の教えなどを聞いたといいます。後年の石原忍の誠実さや勤勉さは、このような幼い時より聞いていた話から育ち始めたものかもしれません。

 

神田川で遊び、毎日一里の道を青山まで

 忍は、四谷小学校に入学。その後中野に引っ越したため、桃園小学校に通うようになりました。小学校は今の宝仙寺の境内にあり、仁王門の隣にある教室で10人ばかりの生徒だったといいます。中野の自宅は千坪もある古い農家を買ったもので、家の前は神田川が流れ、忍も川で泳いだり、ナマズをお手製のモリで突いたり、田んぼでドジョウをとったりするような子供時代を過ごしました。

 中学は英和学校に入学。今の青山学院ですが、中野の自宅から毎日歩いて通いました。その後、父の氏基は淡路島に赴任することとなりましたので、石原忍は親戚の家へ預けられ、東京で勉強を続けることになりました。この伯母の家への引っ越しを機に飯田町の共立中学校(後の東京府立四中)の二年に編入試験を受け、合格しました。

 

父の助言で軍医をめざす

 次には高等学校です。当時の高等学校は大学の予科で、無試験で大学へ入れることになっていました。しかし、そのかわりに高等学校の入学試験は大変難しく、しかも、将来進む大学の学部・学科に合わせて高等学校の「部」を選ばねばなりませんでした。最初、忍は、天文学を研究したいと考え、この時には下関にいた父に会いに行き、相談しました。父の氏基はしばらく考えておりましたが、次のように言ったと伝えられています。

「天文学もおもしろいだろうが、将来、生活に困ることになりはしないか。私にも時々仕事がいやになってやめてしまおうかと思う時がある。しかし、やめてしまったのでは、お前たち子どもの教育もできなくなるから、我慢してやってきたわけだ。

 どころが、私の部下に軍医がいるが、その男は、もういい加減でやめさせていただけませんか、などと平気でいってくる。私には実にうらやましい。医者なら軍人にもなれるし、勤めがいやなら開業することもできる。その点自由でよいと思うが、医者になったらどうか。」

 

 この言葉を聞いて忍は軍医ならいいかもしれない、と考えるようになり、医学部に入るための一高「第三部」を受けることに決めました。明治時代の日本では、西洋医学をドイツに学ぼうという方針が決まり、医学部予科である第三部だけはドイツ語の試験がありました。そこで、忍は独逸協会学校の別科に入ってドイツ語の猛勉強をして一高の学生となりました。

 

 日本の学校制度は太平洋戦争の前後で大きく変わっていて、忍らの通った高等学校を「旧制高校」と言いますが、旧制第一高等学校は全寮制で、その寮は高校生たちによる自治で運営されていました。大学入学試験はないので、勉学はそれほどあくせくすることもなく、親から離れた人間形成の場として、スポーツに打ち込み、仲間と旅をし、山に登り、哲学書を読むなどということがよく行われていたようです。石原忍もまた、ボート部に入り選手として出漕しました。

 石原忍の人生において、ボートは大きな柱のようなものでありました。ずっと後の82歳の時に、後輩のボート部員に頼まれて書いた「漕艇雑感」という文章には次のようなことを書いています。

 

 「漕艇雑感」

 ・競漕には利己主義や個人主義は禁物で、常に武士道精神を以て全体のためにつくす覚悟が肝要である。

  ・先輩を尊敬してよくその忠告を聞き、自己を反省して、心身の向上に努めること。

  練習は一漕一漕に全精力を集中し、最大の力漕を以て全コースを漕ぎ通すようにすること。

  ・自分の苦しい時は、人も亦苦しいのであるから、常に人より一層苦しい練習をするように心掛けること。

  

右は競漕に優勝する秘訣である。そして世の生存競争に打勝つ秘訣でもある事を諸君の先輩は身を以て示してくれたのである。

      昭和三十六年九月、漕艇選手諸君のために八十二翁 石原忍 志るす

 

身体とともに精神の強さもボートで鍛え、仲間と力を合わせることで生まれてくる強さというものにも気づいた青春時代を振り返っている忍の言葉を、後輩たちはどのように受け止めたのでしょうか。

ボートの練習に打ち込み、またひとり旅をして自然の猛威を前に人間の小ささを自覚するということもありました。そして、高校生ばかりの寮生活では、若者でなければ考えないような、面白いこともありました。誰が言い出したのか、三部の学生が集まった折、「将来医者になって手術をするために左手が利かないというのは不便だ」と毎日食堂で箸を左手で使う練習をすることになったのです。始めはうまく口に運べなかった豆も、しだいに上手につまめるようになり、本当に医師となってからの手術に役だったそうです。

 

父の死

忍が大学二年の時、父の氏基が亡くなりました。まだ53歳であったといいます。母レイは一家八人の生活を支えるために広い宅地を売り、小さな家に移り住みながら子どもを育てました。忍が残り数年の学生生活を学問とボートに打ち込めるよう、母が守ってくれたのです。普通、4年生になると出漕しない慣例を破り、忍は4年目にも練習を続けました。練習でくたくたになりながらも勉強しましたが、やはり成績はよくありませんでした。卒業時の序列が後の方になったため、のちに軍医になる時も進級が遅れましたが、「在学は短いが、卒業後の人生は長い」と意にもとめない忍でした。 

 

大学など出てもだめである

大学を卒業すると同時に、忍は見習い医官として近衛歩兵第二連隊に入営し、半年後には二等軍医(中尉)となりました。

軍隊では威張り盛りの若い少尉たちも、軍医中尉には一目置いたので軍隊特有の辛い経験をすることはありませんでした。しかし、ひとつの大失敗がありました。ある日、連隊長の査閲があり、それには見習い医官が立ち会う決まりとなっていました。ところが、食事のあと、脚絆を巻くことがうまくいかず、何度か巻き直しているうちに遅刻してしまったのです。講評の時、忍らは特別に呼び出され、兵たちの前で遅れたことをひどく叱られました。「諸君は大学を出た者ではあるが、大学など出てもダメである。」という叱責に、忍は本当にこたえたらしく、これ以降、他人の目には奇行と映るくらいに時間に厳しい人になりました。

 

眼科の世界へ

 東大医学部の頃、内科の勉強をしていると、たびたび臨床講義で聞いていた診断が、後での病理解剖では当たっていなかったという場面に出会い、忍は内科がきらいになってしまいました。それにひきかえ、外科は簡明直截。診断がはっきりしない場合も切ってみればわかります。また悪いところを取るなり、痛いところを切開して膿を出すなりすれば苦痛がとまるというように、はっきりしている所が気に入っていました。それで、見習い期間の後の病院勤めでは外科病室と手術室の担当となりました。ところが、陸軍では、眼科専門の軍医が必要となり、石原忍に大学院で眼科の勉強をしないかという話があり、これを受けることになりました。物理が好きだった忍は眼科にも興味があり、大学院に行くことにしたのです。

自由な雰囲気の大学院のなかでは、トランプで遊んだりする者もいた中、自分には2年間しか時間がない、と忍は研究に没頭し、何日も帰らずに結婚したばかりの妻、琴を心配させてしまうほどだったといいます。

 

 2年間にまとめた論文は6つあり、「先天性全色盲」(㊟今では不適切な表現ですが、当時使われていた言葉をそのまま記します)「万国式日本視力表」「重桿菌性結膜炎」に関するものでした。

色覚異常に関しては、ひとりの色覚異常の患者を検査してその結果を日本眼科学会雑誌に発表しましたが、これは、わが国で最初の色覚に関する報告でした。色覚異常というのは、色を感じる細胞の多様性によっておこるものです。一般の者が見分けられる色が同じに見えたり、逆に一般の者が同じように感ずる色が別の色としてはっきりわかるなど、その能力はさまざまです。

 

・石原忍が考案した色覚検査表。最初は陸軍用に作られたが、学校用も出版された。

 

現在の考え方では、人はそれぞれの持っている網膜の錐状体細胞によって、違う色を感じており、これまで色覚異常と呼ばれていたものも2017年から「色覚多様性」と呼ばれるようになっています。しかし、赤と緑の区別がつかないなどの見え方では、色によって判断が必要な染色業、塗装業、滴定実験を伴う業務、色調整・色校正が伴う業務、パイロットや鉄道・航空関係の整備士、商業デザイナー、警察官、看護師、獣医師、カメラマン、食品の鮮度を確認する作業が伴う業務、美容・服飾関係の業務などに就く場合、困難を伴うことがあります。

日本では2002年度までは小学校での検査が行われていましたが、異常とされた生徒でも大半は支障なく学校生活を送ることができるとの考えで、翌年からは検査をしないところもできました。しかし、その後の調査で進学・就職の時期になって初めて大半の人と色覚が異なるということが判明して、進路を断念せざるをえないというトラブルがあるということがわかり、2016年度からは学校で希望者に色覚検査を実施することになりました。かつては制限の多かった就職に関してもほとんどは区別がなくなり、医師にも警察官にもバスの運転手にも色覚のちがう人はいます。(ただし鉄道に関しては国土交通省の定める省令による制限があります。)

色覚に関する興味を持った忍はスチルリング氏の仮性同色表というものを手本にして日本の文字の色覚検査表を作る練習をしていましたが、偶然、色覚異常を持つ友人医師がいて、いっしょに検査表を研究してくれました。後に世界に認められた色覚についての研究は、すでにこの時から始まっていたのです。

 また、「重桿菌性結膜炎」についての論文を標本と共にドイツの眼科学の権威、アクセンフェルト教授に送ったところ、“Klinische Monato blätter”という眼科雑誌とコルレ・ワッセルマンの『病原微生物全書 第二版』にその記事と組織図が載りました。

 

 2年間の大学院生活を終え、石原忍は軍医学校の教官になりました。当時、陸軍省医務局長は森林太郎。有名な小説家の森鷗外です。このとき50歳でしたが、陸軍省の重職を務めながらも文芸雑誌に小説を連載し、初の歴史小説を発表するなど、すでに文筆の分野でも活躍をしていました。この森が石原忍の勤勉さを評価していて、ある日陸軍省に呼び、外国に駐在する者には語学試験が課せられることを話して聞かせ、「どうも軍医のドイツ語が下手で困る。外国からよこす手紙も宛名の書き方が間違っている」と忍にドイツの新聞を一束くれたのです。森林太郎自身、ドイツに留学した人物で、その時の体験をもとに『舞姫』『うたかたの記』などの小説も書かれています。

石原忍の方はといえば、研究にばかり没頭する石原を心配して仲間の医師が小説の本を貸したところが、毎晩小説を読み始めると眠ってしまったというほど、文芸には縁のないひとであったようですが、上司の激励にやる気を出し、ドイツ語の塾に通って勉強し、めでたく留学生となって森林太郎を喜ばせました。

 

アクセンフェルト先生に感服

 大正元年(1912)11月、石原忍がドイツに出発したこの頃は、日本からヨーロッパに行くには船で南回り航路を行くか、シベリア横断鉄道でモスクワを経由して行くかのどちらかでありました。忍はシベリア経由を選びましたが、11月のこと、気温は零下15度から20度という寒い雪の原野を行く旅でした。モスクワまでは2週間。ここでお正月を迎え、さらに4、5日かかってドイツのベルリンへたどり着きました。赴任したのはイエ-ナ(Jena)の大学で、町はずれにはザーレ河が流れ、周囲をなだらかな丘に囲まれており、古い城のある落ち着いた所でした。この町にはレンズで有名なカール・ツァイスの工場があり、忍もここで2種類のコンタクト・レンズを作ってもらっています。

 留学中ももちろん、日本にいる時同様、研究に熱心に取り組みました。すでに日本にいる時に、ドイツの眼科教科書の中の光学に関する部分に2か所の誤りがあることに気づいていた石原は、そのことをアクセンフェルト教授に話し、教授はその部分を執筆したハイネ教授に知らせて次の版から誤りが正されました。また、自説をなかなか曲げない病理学の教授に対していろいろな標本を作って反論し、ついには自分の観察した結果を認めさせることもありました。

 アクセンフェルト教授は細菌学の権威でしたが、この先生の勤勉さにはさすがの石原忍も目を見張ったといいます。夏でも冬でも朝7時には講義を始め、8時から手術、それから外来患者の診察、病棟の回診、自宅で昼食と休憩をした後、4時から7時まで教室に来て研究、時には10時頃に教室に来ることもありました。自宅の大きな書斎机には雑誌や原稿がひろげてあって、「やりたいことが山ほどあるが、忙しくてとてもやりきれない」と溜息をついていた、というのです。こんな先生をみて、石原は自分もさらに努力しようと考えたのではないでしょうか。

 

この石原留学の16年後の1930年、大阪で行われた第8回日本医学会を機に来日したアクセンフェルトは1932年に“Theodor Axenfelds Briefe und Tagebuchblätter  von seiner Reise zum Ⅷ. AllJapanischen Medizinischen Kongress in Osaka” という旅行記を出していますが、その本には石原忍とアクセンフェルトが一緒に写っている写真が載せられています。留学中、お世話になった先生を、日本の教え子たちは一生懸命案内をしたとみえて、旅行記には大阪、奈良、出雲、京都、東京、日光、松島、名古屋の写真が載せられ、東大のベルツとスクリーバの胸像の前で石原忍たち日本人医師とアクセンフェルト教授が大きな花輪を献げている写真もみえます。今でも東大眼科学教室には明治以来の欧米の医学書が所蔵されていますが、ドイツ語の書籍も多く、わが国の近代医学を育ててくれた大切な国として、ドイツへの感謝の気持ちは石原たちの中にあったにちがいありません。

 

・1932年(昭和7年)に出された日本への旅行記


・右から石原忍、アクセンフェルト、河本重次郎


 

 素晴らしい努力家のアクセンフェルト教授にも会い、また日本人を対等に扱ってくれるドイツ人たちとの暮らしにも満足しながら研究にいそしんだ石原忍でしたが、残念なことに1914年8月、第一次世界大戦が始まってしまいました。日本人留学生は急いでオランダに出国し、ロンドンを目指しましたが、石原たちが通った5日後にはドイツ—オランダの国境も閉鎖され、留学生の中には収監されてしまった者もおりました。戦争は自由な学問の交流をも断ち切ってしまうのですね。石原忍はロンドンから郵船会社の宮崎丸という船で帰国しましたが、敵艦が待ち伏せているかもしれないと、夜は燈火を消し、昼は避難訓練をしながらの航海だったそうです。

 

論文30本と色覚検査表の発表

 帰国後、石原忍は精力的に論文を発表します。なかでも注目されたのが色覚についての発表でした。そして、陸軍省から徴兵検査用の色覚検査表を作ってもらいたい、という要望に応じて、これに取り組み、完成させたのが「大正五年式色神検査表」です。これは大変評判のよいものだったので、同じ原理でカタカナを読ませる検査表、さらに数字を使った学校用の検査表が作られました。

 国内で使われた検査表を世界にも発表したいと600冊がつくられ、そのうちの90冊が各国の大学や眼科医に寄贈されました。数年はさしたる反応はありませんでしたが、まず北欧諸国の船員や鉄道員の色覚検査法を定める席上で石原検査表を使用することが提案され、その翌年にはアメリカ、ジョンズ・ホプキンス大学のクラーク女史が論文を発表して石原検査表の優れていることを世に示したのです。その後もドイツやスイスの研究者が石原検査表を他の検査表と比較して、その検査精度のすばらしさを証明しました。そして昭和4年

(1929)アムステルダムで行われた第13回国際眼科学会で「色覚の国際的検査法として、スチルリング表、石原表、ナーゲルのアノマロスコープを採用すべきである」と提議され、昭和8年(1933)のマドリードで行われた第14回国際眼科学会では「色神は数種の方法で検査し、かつ2種の仮性同色表による検査をふくむこと、出来得ればスチルリング氏表および石原表を用いること」と決議されたのです。石原忍の検査表は世界の検査表になりました。

 この数年後、第二次世界大戦が起こりますが、その戦争中もイギリスでは敵国日本の石原表が色覚検査に使われていたそうです。戦後、石原のもとに、戦争中に許可を得ずに復刻した検査表の代金はスイスに預けてあるので、受け取ってほしい、という手紙がきたと石原忍は後年語っていました。残念ながらそのお金は敗戦国日本の在外資産として差押えられていましたが、敵国にも認められていたという石原表の確かさを示すお話です。

 

東大眼科教室の大改革と大震災

 大正11年、東大眼科学教室の主任教授を勤めた河本重次郎が選んだ次の教授は、石原忍でした。河本重次郎教授は、江戸時代の安政6年に但馬で生まれ、東京大学に学んだ後、ドイツ・ベルリン大学に留学して眼科学を修め、33年の長きにわたって東大眼科学教室の中心となってきた人物です。この河本教授の指名は、軍医学校で教鞭をとっていた忍には予想だにしていないことでした。

 しかし、いったん引き受けたからには、日本の大学を世界のどの大学にも負けないような学問の場にしたいと、意欲を燃やします。まずは図書資料と研究設備の拡張整備に着手し、思う存分研究ができる環境を作り上げました。また、教授室に並べてあった本を図書館にまとめ、さらに自ら東京中を走り回ってイタリア・スペイン語にもわたる眼科関係の書物を集めます。弟子のひとり、中泉行正はその頃の様子を「半年間はまるで戦争のようだった」と書いているほどです。

 東大教授に就任して大改革を行い、ようやく落ち着き始めた翌年、大正12年9月1日、関東大震災が起こりました。3日3晩東京の市中は燃え、死者行方不明者13万人、焼失家屋は40万戸に上りました。東京大学構内は大きな被害はなかったものの、3日めになってすぐ隣の女学校が燃え始め、病室への類焼が心配されました。皆は必死になって女学校の屋根に登り、水をかけて被害をくいとめました。

 この緊急事態の中、石原忍は臨時病院長を命じられ、全入院患者、全職員の衣食を調達する責任がのしかかりました。東京の市中は焼けてしまって、店などないのです。石原は委員を組織して埼玉県の川越や熊谷までも食料集めに人を派遣し、水がなくなれば隣の岩崎邸の井戸水をもらいにやり、戒厳令下の自衛には自らが銃剣を持って警戒にあたりました。

 そんな中で、石原忍の清廉さが表れているエピソードがあります。東京大学のあるのは本郷区なのですが、すぐ近くで小石川区の米配給がありました。すると、これを聞きつけて、「一人五合ずつ区内の者に限って分けてやっていますから、医局の先生方も一緒に行っていただいて、区民だといって分けてもらいましょう。そうすれば入院患者の食う米が助かります。」という者がありました。すると、石原は、「そりゃいけないね、ぼくらは本郷区の者なんだから、それはいけない。そんな嘘はいわなくても何とかなると思う。」と言って、きっぱり抑えてしまったそうです。上に立つ人の真っ直ぐな姿勢が組織をゆがめずに、皆を引っ張って行きました。

 

偶感一束

 ここで、石原忍が自らの人生訓として守り、かつ実行したことを言葉にした文章を紹介しましょう。昭和7年、東京帝国大学医学部医学科卒業生記念アルバムの巻頭に掲げられたものです。

 

偶感一束

 

過失は何人にも免れ難いものである。

なるべくあやまちをしないやうに注意すべきは勿論であるが もしあやまちを為した時には速やかにそれを改めるのが最善の道である

過を改むるに憚ることなかれ

 

人がこの世に生存し得るのは決して自分のみの力によるのではない、日常の生活に

必要な品から学問知識に至るまで自分の所有するものは殆ど皆他人から之れを受けたのである、吾人は共存共栄の意味からお互に他人の為めに尽す用意がなくてはならぬ

我が身の為めに先づ人の為国の為

 

何れの生物を見ても其の生存競争に打ち勝った者は栄え然らざる者は衰へる、一身の栄達を冀ふ者は常に他人よりも一段多く努め働くことの覚悟を要する

勤勉は安寧の基

 

凡そ自然に反することを行なへば其の結果は必ずよくない。自然に順って人力を尽くすのが成功の秘訣である

自然を恐れよ、人を恐れるな

 

初心の学者は兎角学問の臭気が抜けぬ、学問は頭の中へ蓄へるべきもので決して鼻の先にかけるべきものではない

知慧は小出しにせよ

 

楽は苦の種 苦は楽の種 困苦缺乏に堪え忍ぶことによってのみ最も大なる愉快は得られる

勇気を以て艱難を突破せよ、勝利の栄冠は必ず汝の頭上に輝かん

 

目前の利害は何人にも見やすいが一時の利益は到底永遠の勝利には及ばない、永遠終局の勝利を得るの道は即ち道徳や神仏の教である

信仰ある者は幸なり

 

 

 晩年、石原忍は「科学というものは研究すればするほど、人間の力の弱さと、自然の摂理の偉大さ、尊さがわかってくる。そして人間以上のもの、神仏の存在を信ずることが出来るようになる。科学者は科学万能で無神論者になるかというと、全く反対で、偉大な科学者は厚い信仰心を持っているものだ」と語っていたと、息子の啓が述べています。人間は小さな存在だからこそ、たゆまぬ努力をし、助け合っていかねばならないという石原忍の考え方は、等身大の自分をきちんと見つめ、その上で高い理想を追う美しい姿勢にみえます。

 

客引きにも丁寧にあいさつ

 大学医局の大改革と関東大震災の後処理が落ち着くと、医局内の雰囲気もよいものになっていきました。最初は改革に反対していた人々にも、石原の私心のない高潔な人柄が理解されるようになり、いつしか慈父を慕うような気持ちが生まれて、皆が熱心に研究をするようになりました。夏休みの大旅行や秋の一泊旅行では十和田、富士五湖、日本アルプス、白根、八ヶ岳、蔵王、乗鞍、白馬などの登山などに出かけました。「酷貧耐暑旅行」などと冗談に言われておりましたが、皆が楽しみにしていたものでした。

 昭和7年に弟子たちがまとめた『石原先生』という本にはこうした旅行の思い出が数々記されていますが、中でもおもしろいのが、石原忍が観光地の茶店や旅館の客引きにもきちんとあいさつをしていた、というエピソードです。客引きが「お寄りくださいまし」と声をかけると、石原はいちいち「私たちは寄りません」と言って応えたというのです。普通なら無視するか、せいぜいニヤニヤ笑って通りすぎるものですが、石原はきちんと応え、「では、帰りにお寄りくださいまし」と言われると、「帰りにも寄りません」とあいさつしたというのです。

 どんな人に対しても、きちんと向き合うのはとても良いことですが、この場合は、正面きって「寄りません」と言われた客引きたちは、びっくりしたことでしょう。

 

正しいものは強く、頼むのは実力のみ

 昭和7年、石原忍の東大在職十周年を祝って門下生一同は伊豆・谷津温泉に別荘を贈ることになりました。この別荘は「一新荘」と名付けられ、石原忍を囲む会は「一新会」という名前になりました。この「一新会」に、石原は注文をつけています。

 「一新会というのは甚だ結構のものと思うておるが、これを外部に対してはなるべく知らさないようにしたい。徒党を組むことは他人に不快の感を与えるし、またすぐれたものにはその必要がない。」

 石原の考えは、正しいものは強く、その強さも、実力のみによることを望んでいました。学閥や門閥をひけらかすことは、まったく憎しみと軽蔑の対象でしかない、と思っていたのです。

 前任者の河本重次郎教授の時は東大眼科教室内に「眼科談話会」がありましたが、石原はそれを排して眼科開業医中心の「東京眼科集談会」で研究発表をするようにしました。これも小さな組織にこだわらず、関わりのある者なら気兼ねなく参加でき、大いに研究し、互いを啓発する場を作りたいという考えからであったのでしょう。

 

気遣いと率直さと

 東大教授となった折、石原忍は「大学の使命は研究にある。アルバイトをしない教室は大学の名をはずかしめるものである。日常患者の診療も研究的態度をもってせねばならぬ。」と語ったそうです。ここでいう「アルバイト」は内職のことではなく、ドイツ語の本来の意味「労作、業績、研究論文」を指しています。医局の研究者たちは実験や診療を通して研究を進め、論文を発表し、本を書きなさい、という激励でした。

石原はもちろん自分でもこれを実行します。代表的な仕事としては、『小眼科学』の執筆があります。この眼科の教科書は大変わかりやすく、図や写真を多くしたため人気があり、その発行部数も大変大きくなりました。後には日本眼科学会での研究発表が『小眼科学』の目次の通りに進められることになるほど、学生たちの基本の名著となりました。しかも、石原は医局の金銭に関して、厳密に公私を分けるようにと指導した一方で、この『小眼科学』の利益はそっくり医局にプールして、学会への出張旅費や送別会費、医局員の旅行費用に充てました。

診療をすることにおいても、石原忍は門下生たちの模範となりました。いくつもの病状をみせている人にも、わかりやすい言葉でひとつだけの病気について語って聞かせ、しかも心配のないように治療法を教えて安心させます。

研究者として興味深い症例をみた時も、「これはおもしろい症例だ」と言ってはいけない、と弟子たちに諭したといいます。患者にとって困った状態を、いくら研究者でも、「おもしろい」と言ってはいけない、「インテレサントだ」と言いなさい。それなら患者たちは気づかないから、と教えたそうです。現代では患者の中にも英語やドイツ語に堪能な人が沢山いますから、この手は通用しないでしょうが、石原忍の教授時代はこれで大丈夫だったのかもしれません。

また、ケガによって片目を失明し、回復の見込みのない子供の患者が受診した時には、その母に率直にそれを伝えます。こうしたことを伝えるのは医師としてもつらいことですが、いたずらに医者通いを長引かせるより、失明という状態を受け入れてこれに対処した人生設計をしてもらいたいという石原忍の気持ちだったのではないでしょうか。冷静な石原の診断を聞いた母親は、帰る時にはむしろ清々しい面持ちであったと中泉行正が書き留めています。

いずれにしても、目の前にいる患者へのやさしい気持ちがなければこのような気遣いや率直さは生まれません。石原忍のすごさは、この誰にでも正面から向き合うという姿勢なのではないかと思われます。

 

患者に接するには常に春風の如き心を以てす

 日本は戦争中、医師の不足を感じ、応急的に医科大学とは別に医学専門学校を作って医師の養成を行うことにしました。その最初の学校は前橋に創設され、文部省は校長として石原忍を任命しました。石原は逓信病院の院長でもあったため、3日ずつ、東京と前橋を往復したといいます。兼務とはいえ、手抜きや妥協を許さない石原は厳しい入試を行い、また東大医学部出身の精鋭の教授陣を揃えて群馬医専を開校します。食料不足の時代にもかかわらず全寮制とし、自ら医学総論の授業を受け持ち、そこで昔の偉人や聖人の言行を解説して、医師になるものに絶対に必要な「医道」の裏付けを説きました。併設の病院の「診療内規」や「看護婦こころえ」も石原が書いたもので、医療の世界で働く者の心構えについて諭しています。

 

・患者に接するには常に春風の如き心を以てす

・自然に反せずして人力を尽くせ

・医は患者に対して秘密を守るの責を有す

・失望は病証を悪化せしむ

・卓越せる医療と熱誠なる看護とは車の両輪の如し

・上医は国を医す

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

     ・東京大学眼科学教室の廊下にある石原忍像

 

戦争が市民生活を大きく圧迫しているこの時期、石原は日ごとに低下する国民の健康や人心の荒廃に心を痛めていたといいます。また、家族にも不幸がありました。石原家では長男の章と三男の成が9歳で亡くなっていたのですが、この戦争末期、学徒動員で工場勤務をしていた五女のみや子が過労で倒れ、亡くなりました。本当に食料も医薬品も不足していたこの時代、生きていくことはとても厳しいことでありました。自分の娘を特別扱いしてくれるよう頼める人柄ではない石原は、一般の人と同様のつらさを耐えていたのです。

しかし、石原が熱心に作り上げた群馬医専は、まだひとりの卒業生をも出さないうちに終戦となりました。

 

伊豆の河津眼科医院

  戦後、石原忍は公職追放を受けました。軍人として組織を指揮していたためです。そこで、石原は本来の眼科医にかえり、伊豆の河津で医療に恵まれない地方の人たちのために余生を送り、天命を全うしたい、と願ったのです。これまでは研究者として、あるいは教育者としての立場がありましたが、今後は開業医として目の前の患者のことだけを考えればよい、と自分なりの方針をたてました。河津眼科医院の出発でした。

 

 ・診療はいつでも自分の全力を尽くして最善の治療をすること。

 ・決して無理なこと、自分の力に余ることはしない。むづかしい患者や自分にわからない患者は、すぐに完全な病院へ送るようにすること。

 ・病人は気の毒であるから、その上多額の経費を支出させないように、診療報酬はなるべく安くする。

 ・患者の取扱いを親切にし、出来るだけ便宜をはかること。

 

 ・河津に移ってからも色覚検査表の研究はずっと続けられた。

 

 「先生、三十銭の注射をして三十銭しか取って戴かないんじゃ、食べてゆけなくなりますよ」と患者から言われても、にこりともせずに、その話はそれでおしまい、とばかりに大きな手をあげて制した、というエピソードも残っていますが、そうした石原の評判は全国に広がり、北は北海道、南は九州からも患者が来るようになりました。医師となっていた次女の喜美子は、そんな父を助け共に活動したといいます。また、遠隔地から来た人で、手術や治療で長く通わなくてはならない人にも便宜をはかり、近所の人に宿を頼んだり、その宿へ往診したりしました。雨の中、雨がっぱを着て往診してくれた石原に患者が恐縮すると、「ぼくは昔、ボートをこいでいたので、少しぐらい濡れるのは何とも思わないんだよ」と気にもとめない様子で話していたそうです。

 

・河津文化の家では石原自ら講師となって青年らと語り合った。

 

 昭和24年、村に一軒も本屋がなく、若者が勉強しようにも図書館もない、という状況に気づいた石原忍は、東京の自宅を売って元の谷津村役場を買い取り、図書館を作りました。「河津文化の家」と名付けられた図書館は村人が自由に閲覧できるかたちにしました。返さなかったり持ち逃げされたりなどということを心配する声にも、「なくなったら、また買い入れるからかまいません。」と言う忍でした。村人に読書の楽しみを教えたかったのです。東京の銀座にある研医会図書館は石原忍の弟子であった中泉行正が設立した図書館ですが、ここにも石原の書いた扁額があります。「好学楽道」とたっぷりした整った筆で書かれた言葉は、石原忍が実感していた人生の歩き方であったように思います。

 

・東京銀座の研医会図書館にある石原忍の書。「好学楽道」

 

 その後も村のために道を整備し、橋に名前をつけ、また一新荘の風呂を村の共同浴場に寄付するなど、石原は河津のために尽します。「伊豆の聖医」「河津のシュバイツァー」という声もある中、昭和30年代になると永年の功績にたいして叙勲や表彰が相次ぎ、31年には紫綬褒章、32年には学士院賞、36年には文化功労者となりました。学士院会員に選ばれたのは学者ではなく、開業医だから、とその選定時期が遅れたのですが、その話を聞いた石原は、「それなら開業医の名誉のために出席しよう」と好きではない東京にも向かい、学士院の例会に参加したそうです。学者が上で、患者のために最前線で働いている開業医が下におかれるなど、石原の信条からすれば本末転倒のように感じられたのかもしれません。

 

 昭和37年の暮れ、石原忍は倒れてしまいます。時折幻覚を見ているのか、村の青年たちに「科学は日進月歩で変化していくが、道徳は二千年の昔から変わらない」ということを興奮状態でしゃべっていました。新年を迎えて、元旦には意識がはっきりともどり、「きょうはお正月か、それではお屠蘇とビール」と一口ずつ味わいます。しかし2日にはまた色覚表やボートに関するうわごとを言うようになりました。そして、ついに昭和38年1月3日6時10分、静かに息を引き取りました。享年83歳でした。

 

 

*文中の仮名づかいや句読点は、引用部分に関してはそのままにしてあります。また、現在では不適切な表現として使われていない単語も当時のものとして、そのまま記してあります。ご了承ください。

 

 

 

 

 

参考文献:  

・『石原先生』 昭和7年11月7日発行 石津寛:編纂 牛山堂書店(東京)

・『石原忍先生の生涯』昭和58年6月10日発行 財団法人一新会 発行 (東京)

・『石原忍の生涯』昭和59年3月10日 須田經宇:著 講談社学術文庫 株式会社講談社

 (東京)

・“Theodor Axenfelds Briefe und Tagebuchblätter von seiner Reise zum Ⅷ. Alljapanischen Medizinischen Kongress in Osaka” HELMUT AXENFELD: 著、発行:VERLAG VON FERDINAND ENKE IN STUTTGART(1932)


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